< 中川ヨウのミュージック・ダイアリー
< TOP < Previous next >
ブランフォード・マルサリスがメランコリイを歌った [2004.08.26]
 ブランフォード・マルサリスがバラード・アルバムを作ると話してくれたのは、2003年2月、ブルーノート各店で来日公演をしたときだった。前々作『フットステップス』をリリース後、初めての来日で、ブルーノート東京での最終日にはジョン・コルトレーンの名曲「至上の愛」全4パートを通しで演奏し、その渾身のプレイに心を大きく揺さぶられた夜のことである。
 「今ならバラードに取り組めると思う。3、4年前からバラード・アルバムの構想を温めてきたけれど、全編をぼくが望む形で作品にするには、演奏力も充分ではなかったし、エモーションの表出が思うに任せなかった。でも、今ならやれる。ウィズ・ストリングスや、いわゆるスタンダードで通すといったヤワなものにはしないから、楽しみにしててよ」と、ブランフォードが真剣な眼差しで語った。
 その後03年10月に録音、陽春にミックスが終わり、『エターナル』と名付けられた新作が手元に届いたのは、6月に入ってからだった。
 そこには、エモーションが音のうちで静かながらも激しく息づいていた。エモーションが一端音楽のなかに沈み込み、それを養分にそっと花を咲かせたかのような、抑制された表現の美しさをもっていた。これみ見よがしに感情を表出させてはいないが、深く豊かなエモーションは十二分に伝わってくる。全体はたっぷりとしたテンポで通されているが、音楽の密度は高く、語ってくる物語は豊潤だった。
 〈レイカズ・ロス〉やタイトル曲〈エターナル〉の11分までは(全17分41秒)、感情を音のうちに封じ込めたような高貴な美しさがあった。こういった抑制美を彼の音楽から聴くのは、おおよそ初めてのことだった。〈ザ・ロンリー・スワン〉でのソプラノは、スピリチュアルな高みさえ感じさせた。バラードという“テンポ”より、そういったことに、まず心を奪われた。
 そして本作が、彼にしか作れない、ブランフォード・マルサリスのバラード・アルバムになっていることに心を動かされた。彼にしか作れないというのは、ジャズの本流を汲みながら、そこに彼の幅広い音楽経験のすべてが込められた作品だということだ。
 7月半ば、ヨーロッパ・ツアー中の彼をつかまえ、電話インタヴューとなったが、ブランフォード自身のことばが、私のもった印象を裏づけてくれた。
 「このアルバムでは“歌”をプレイできたと自負している。“ソロ”を演奏するだけのバラード作にはしたくなかったんだ。“ソング”をプレイしたいという想いが基盤になっている。“ソング”と“ソロ”の違いかい? “ソロ”とは、無理に複雑なコード・チェンジをし、衆目を集めるような演奏のこと。“ソング”とはメロディに自分の内から出るサムシングを投入できたとき、“歌”になるという意味だよ。この二つの違いは、演奏面という以上にメンタリティにある。
 2年間〈至上の愛〉をステージにかけ続けたこと、ぼくの年齢、人生経験が“歌”をプレイすることを可能にさせた。バンドにとってもそうだ。この2年間がクァルテットを真の意味でバンドにしてくれたと、うれしく思っている」
 この『エターナル』にあるエモーションは、喜怒哀楽という大まかな分け方でいえば「哀」である。それをブランフォードは「メランコリイ」と呼んだ。
 メランコリイは憂鬱、悲哀感、と訳されるが、彼がいうのは、仏教でいう諸行無常に近い。万物は常に変化して、少しの間もとどまることがない。そこからくる、誰一人として逃れることの出来ない深い哀しみを指している。
 生きる上で、生・老・病・死、愛別離苦(愛するものと生別・死別する苦しみ)といった八苦にとらわれない者はない。そこから生まれる感情を、彼は「メランコリイ」と呼び、それを音のうちに封じ込め、“歌”にしたのだ。
 こういった感情を真っ正面から取りあげることは、「ポジティヴばやり」の現代にあってはチャレンジでもあり、一見ニューエイジ(の考え方)がもてはやされる時代に逆行しているともいえる。先進諸国では、特に90年代から暗いこと/ネガティヴであることが忌み嫌われ、明るく/ポジティヴであることが、国や宗教を超えた、時代がもつ信仰にまで祭り上げられている。
 でも、生きる上で八苦が存在する以上、誰がメランコリイを無視できるというのだろう。暗かったり内向的な自分を否定するから、ネガティヴな考えにがんじがらめになるのではないか。またなぜ癒しの音楽が多くの人に受け入れられ、2001.9.11以降、一気に自他を癒そうとする音楽が創られたのか。

 彼に、どうしてメランコリイを前面に押し出したのか、聞いてみた。
 「当初はバラード・アルバムを作ることが主題だった。その構想を温めているうちに、メランコリイという感情と向き合う必要が出てきた。メランコリイは誰もがもつエモーションだ。人を愛しても生まれるし、愛した人と別れにも強く感じる。ぼくの心の内にも、いつもメランコリイがある」
 このことばが、ブランフォード・マルサリスから発せられたものゆえに、興味深い。彼に会った人なら誰でも知っているように、彼は人に好かれ、彼も人間が好きで、どんな状況でも正直かつスポンティニアス、ジョークを言わせたら音楽界No.1である。太陽のように、自然に周りを明るくする気質の持ち主なのだ。
 その「太陽」が、メランコリイを語り、それをテーマにした作品を作った。
 ブランフォードのようにまっすぐな視線で世界を見つめ、自身と音楽を見つめる人にあっては、メランコリイはいつかはテーマになるべき主題だったのだ。例えば中世にあっては、男も今より格段に泣いたという。今でこそ、男性は「男なんだから泣いちゃダメよ」と言われ育つが、男が泣くことが美徳だった時代もあったのだ。ブランフォードがことばを重ねた。
 「そう、真に男らしくあるためには泣くときだってある。涙を見せない男は、タフであることを装っているに過ぎない。ぼくは、今はハッピーな気分よりメランコリイが好きなくらいだ。昔は何があってもスマイルを絶やさなかったけれど、それはハッピーである振りをしていただけだった。でも人生は、そんなものじゃない。ジェットコースターのように、アップもあればダウンもある。メランコリイが、精神のバランスをとってくれるんじゃないだろうか。以前は、ぼくにとって憎むべき対象だった。
でも友人として認めたとき、メランコリイに振り回されることがなくなり、逆にコントロールできるようになった」
 そのメランコリイが、この作品で凝縮され、音楽のうちで昇華した。だからだろう。このアルバムを聴いた最初の数回は、哀しい想いがこれでもかと湧き出し、聴いているといつも放心した。でも、聴くのを止められなかった。音楽を通して自分の体験、感情がろ過され、そこにカタルシスが生まれるのを感じたからである。アリストテレスが、悲劇の目的をパトス(苦しみの感情)の浄化とした、そのことが『エターナル』を聴くうちに起こったといえるのかもしれない。
※権利者の許可を得ずに、複製することを禁じます。
 オープニングは、ナット・キング・コールの歌で、ブランフォード自身がいい曲だと惚れ込んだ〈ザ・ルビー・アンド・ザ・パール〉。ボレロとソンの中間のスタイルで演奏されているが、スウィートに流れずに、官能さが漂う素晴らしい出来映えだ。
 〈グルーミイ・サンデイ〉のテナー・サックスは、彼が今達したプレイヤーとしての境地を見せつけている。歩くようなベース・ラインを取り入れているが、この手法はソニー・ロリンズに学んだという。ちなみに「ロリンズを聴くことで、忍耐強くなれる」とも話していた。
 エンディングは、壮大な曲想をもつ自作曲〈エターナル〉である。先に触れたように感情の抑制が見事で、それが結果的にクライマックスを更に引き立てているが、「抑制の大切さは、キース(・ジャレット)から学んだ」のだそうだ。
 コルトレーンから学び、そこにとどまることなく、キースの音楽の魅力を咀嚼した、といったところだろう。
 ブランフォードは、前々作に当たる『フットステップス』で、尊敬する先人たちの曲を取りあげたが、そのことがステップ・ボードとなり、今作で更なる飛躍を遂げた。彼が多くの音楽を聴き、多くの先人から学び続ける限り、その前進は止まらない。
 そして、このアルバムから伝わりくるエモーションは諸行無常であっても、タイトルを『エターナル』=不変の、永久のとしたところが彼らしい。(その瞬間に存在する)永遠性を信じるところに、ブランフォード・マルサリスという音楽家の根底に流れている明るさを見、同時代人としてジャズを愛する喜びを感じるのだ。
▲2003年冬の来日時に。左から上田さん、ブランフォード・マルサリスとヨウ、ツアーマネージャーのロッド。
▲ Page TOP
< TOP < Previous next >
< 中川ヨウのミュージック・ダイアリー