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ジュリエット・グレコの翼にのって [2004.11.19]
 昨日パリから帰ってきた人から、今月11月に行われたジュリエット・グレコのアンコール公演が、ひたすら素晴らしかったと聞いた。そうだろう、そうだろう。私も行きたかったなぁ。パリ中がマダム・グレコに、再び恋をしているのだ。その熱狂を、この目で見たかった。
 彼女が「サンジェルマン・デ・プレのミューズ」と呼ばれてから、もう半世紀以上が過ぎたけれど、哲学者のサルトルや、ジャン・コクトーが讃えた彼女の自由な精神は、今も健在だ。

 パリに行けなかった私が、それでもあまり悔しくないのは、10月23日、渋谷Bunkamura、オーチャードホールでジュリエット・グレコ、2年ぶりの来日コンサートを見たばかりだから。今日はその模様をお知らせしたい。
 黒のドレス、宝石はナシ(「心が宝石、歌詞が宝石だからキラキラ光る石はいらない」と語るマダム・グレコは宝石を身につけない)という衣装はこの半世紀、変わることがない。そして彼女の音楽活動を貫く、自由への希求もまた不変だった。
 だけれども、今回のコンサートでは、彼女の人生に対する肯定的なとらえかたがより鮮明に表現されていた。それが、素晴らしかった。失った恋の歌にも、恋をしたこと自体への喜びが添えられていた。明るさやユーモアのある曲も多く、そんなナンバーでは喜びを全身で伝えてきた。

 以前より瑞々しい歌声が、77歳という年齢をただの記号に変えてしまい、「現在」を生き続けるグレコの存在を強く印象づけた。 フランス屈指の若手ソング・ライターたちが彼女への敬愛をこめて書いた新作「愛し合いなさい、さもなければ消えてしまいなさい...」が、母国フランスで大ヒット。日本でも大きな反響を呼んでいる昨今だ。その新作からのナンバーを盛りこみ、新たな境地を聴かせ、日本のファンになじみ深い往年のシャンソンも、彼女は今起こっている物語として歌った。
 例えばオープニングを飾った「長椅子の下で遊んでいた」に、のっけからノックアウトされた。この曲は、新作からの1曲でジェラール・マンセル作詞・作曲だが、グレコは「この歌を聴いたときマンセルは子供のときの私を知っていると思った」と語った。そこで歌われる長椅子の下で彼女が見つけたもの、そして彼女が口にする「互いに愛しなさい、さもなければ消えてしまいなさい」という思いは、コンサートの間中消えることはなかった。
 「今の私が歌う歌ではないかもしれませんけれどね」と前置きをして始めた「脱がせてちょうだい」のコケティッシュさ。シャルル・ゲンズブールが書いた「アコーディオン」で、黒いドレスを上下に舞った白い指の誘惑。また彼女がパリを歌うと、聴き手は残らずパリに恋をした。

 ジュリエット・グレコが両の手を空にむかって広げるとき、歌が大きな翼をもち、自由が広がった。私たち観客は、その翼にのって飛ぶことができた。あぁ、なんて気持ちがいいんだろう。
ジュリエット・グレコ
『ベスト・オブ・ジュリエット・グレコ
<来日記念盤>』

ユニバーサルインターナショナル
UICY-1261
2004/10/13発売
※権利者の許可を得ずに、複製することを禁じます。
 ジュリエット・グレコの人生を、ちょっとご紹介しておいた方がよいのではないかということに、ここまできて気がつきました。コンサートの会場を埋めていたのも、50歳代、60歳代のカップルですものね。あなたがグレコを知らなくても、無理はない。
 ジュリエット・グレコが生まれたのは、1927年2月7日、モンペリエ。両親は彼女が幼い頃に、離婚した。母方の祖父母の広大なお屋敷で、姉と2人育てられたが、実の母との折り合いは生涯上手くいかなかったとグレコは言った。彼女のことばを借りると、次のようになる。
 「母は姉だけを愛したの。母に愛されなかったという思いが、長いこと私の胸にナイフのように刺さって抜けなかった」
 その母、姉とパリに暮らすようになり、オペラ座のバレー学校に進むものの、第二次世界大戦が勃発。母はレジスタンスの闘志になり、やがて逮捕され、グレコも姉と2人刑務所に送られるた。だが、彼女だけ未成年のため釈放された。その後グレコはパリでひとり演劇の勉強を始めたが、刑務所に送られた体験が彼女の「自由への希求」を培ったのだという。

 パリ解放後は、サンジェルマン・デ・プレに集うサルトル一派に可愛がられた。彼女の美しさは、アメリカの写真誌「ライフ」の目にも止まり、彼女の黒一色の姿が4ページにわたって掲載されたことで、一躍世界に名をとどろかせた。
 サルトルも彼女に詩を贈り、作曲家のコスマ(あの「枯葉」を書いた人だ)を紹介した。こうしてジュリエット・グレコは歌手としてデビューした。
 1951年には「日曜日が嫌い」でエディット・ピアフ賞、1952年に「ロマンス」でACCディスク大賞を受賞し、歌手としての名声を築いていったジュリエット・グレコ。

 グレコの音楽に向かう姿勢は、デビュー以来変わらない。彼女自身は、そのアティトゥードをこんな風に語った。
 「まず詩ありき。私は愛することばしか、口にしないの。愛する人にしか、キスしないのと同じこと。素晴らしい詩に出逢ったら、詩を抱きしめて、一緒に寝、一緒に暮らしてその詩の世界に入りこむ。いつしか詩が私を通して生き始めたら、歌う準備ができたということになるわ」
 彼女に詩を捧げた詩人たちはプレヴェール、クノー、サルトル、モーリヤック、レオ・フェレ、ゲンズブール、ブレル、ファノン、グーゴー、カリエールetc. etc.
 映画にも出演し、その美しさをフィルムにも焼き付けたが、彼女が愛したのはやはり歌だった。67年頃から歌に専念し、83年には1ヶ月にわたるロング・リサイタルを成功させ、84年にはフランス政府からレジョン・ドヌール勲章シュバリエを授与された。
 グレコが間をあけすぎずに発表するアルバムは、どれも冒険に充ちていて、新曲で埋められていた。93年の「黒と赤のリボン」。98年の「ある夏の日と.....」。
 2003年にはレジョン・ドヌール勲章オフィシエを授与され、同年11月、彼女は先にふれた新作「愛しなさい、さもなければ消えてしまいなさい...」を発表し、再び時の人となった。その折りパリ、オランピア劇場で行われたコンサートでは、感動した観客が「メルシー!」と叫んだそうだ。

 ありがとう、私もマダムにそう言った。今も明るく人生を楽しんでいてくれて。今もきっと自分でワーゲンを運転していてくれて。きれいでいてくれて。特に、美容に時間をかけないで、きれいでいてくれて(これは全女性の願望だもの)。
 私は歌手としての彼女も好きだが、人間として、丸ごと大好きなのだ。
 彼女のコンサートを、これからも幾度も、幾度も見たいと願っている。
 ジュリエット・グレコが笑って言った。
 「取材でね、天国に行きたいか、それとも地獄に行きたいかって聞かれたことがある。私は、こう答えたわ。天国に行っても、多分友人たちが誰もいなくて寂しいから、友人たちが先に行っているところに行きたいって」
楽屋でマダムに甘えてみました。
マダムの特別の許可を頂いて、ここに掲載します。
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