輝きがあった。喜びがあった。伝わりくるエモーションがあった。
伊藤君子、4年ぶりのフル・アルバムがやっとリリースされた。待ったかいがあるとは、このこと!『一度恋をしたら〜ワンス・ユーヴ・ビーン・イン・ラヴ』は、クオリティの高さを保ってきたビデオアーツミュージックにおける諸作の中にあっても、彼女が“今”、ベストであることを証明したアルバムになった。
プロデューサーをつとめた
小曽根真がアレンジを書き、コンダクトしたビッグバンドとともに生んだ躍動。小曽根率いるこのビッグバンドは、No Name Horsesと命名されたが、その実、日本で考えうる最高の精鋭が結集した才能集合体だ。謙遜して、自らを名ナシ馬と呼ぶこの“騎士団”の献身を受け、“歌姫”伊藤君子は今までにない盾と槍を手にし、炸裂するエネルギーを聴かせたのだった。
と同時に、トリオやデュオで録音された静かな曲では、彼女の歌は表現をより深めていた。小曽根のピアノとデュオで臨んだ武満徹作曲の〈MI・YO・TA〉では、谷川俊太郎が書いた詞の世界の中にたたずみ、その切々たる心情を美しく響く日本語で歌った。日本語でのレコーディングは、ジャズを歌い出してから初めてのことだった。
どの楽曲にも彼女ならではの表現があったが、その歌が示す領域の広さも、また彼女にしか成し得ないものだ。
押井守監督のアニメーション映画「イノセンス」の主題歌に起用された〈フォロー・ミー〉を収録した同題のミニ・アルバム(2004年3月リリース)を特別な位置におくと、先にも書いたが、今作は4年ぶりの作品だ。その前のフル・アルバム『KIMIKO』(2000年リリース) は、実は小曽根にとって記念すべき(他アーティストの)初プロデュース作であった。
この二人が共演するところ、常に魂レベルでの共振が生まれるのだけれど、伊藤君子と小曽根 真の音楽的な交流は1990年前後にさかのぼる。九州・宮崎フェニックス・ジャズ・イン出演をきっかけに意気投合し、その後の8年間は比較的地味に共演を続けたのだった。
互いが他では味わえない自由と飛翔を感じさせてくれる共演者であったため、二人はデュオを組む機会を大切にした。所属レコード会社が異なるのでアルバム化は無理かと思われていたが、状況が一転、97年にレコーディングのための公式デビューが決まった。用意された場が、あの名高い、スイスのモントルー・ジャズ・フェスティバルであったことは、あまりに有名ないきさつだ。そのライヴの模様を収めた『アット・ザ・モントルー・ジャズ・フェスティバル』(97年11月リリース)をスタートに、二人のアルバムにおけるコラボレートは、今作まで3枚のフル・アルバムで続いてきた。
伊藤君子と小曽根 真、それに双方のパートナーを含めたお付きあいはプライヴェートな時間のなかでも育まれ、傍目には家族のように見えるほどだから、今作のコンセプトも折々の機会に交わされる、二人の会話から徐々に練り上げられた。
例えば、ある日、小曽根が言った。
「ライヴで爆発するときのあの興奮を、アルバムにしたいよね」
また別の日に、伊藤君子が言った。
「ウチのおっちゃんと、ビッグバンドをやりたい」
その“おっちゃん”とは、彼女が敬愛するドラマーで、人生の伴侶でもある海老沢一博のことだ。照れるので面と向かっては言わないと思うけれど、私にはこんな風に告白してくれたことがある。
「素晴らしいドラマーです。尊敬しているんです。ビッグバンドでは、彼のドラム以外には考えられません」
まさにごちそうさま、なのだけれど、海老沢一博のビッグバンドでの永年にわたる活躍とそのドラミングの精度の高さを思うと、彼女のことばは的を得ていた。
プロデューサーをかってでることになった小曽根も、ビッグバンド作をというアイデアに大きくうなずいた。とうことは、みずからがビッグバンド・アレンジを書き、指揮をするということである。
海老沢一博の起用についても、小曽根からも勧めたいほどだったので即決だった。それ以外のメンバーは、エリック宮城(tp)、
中村健吾(b) という帰国組と、小曽根とは音楽的な兄弟づきあいを続けている塩谷哲(p)、 同様に彼が近年応援している、三木俊雄(ts)のフロントページ・オーケストラに参加しているメンバーを中心に選ばれた。
今作への参加ミュージシャンは、総勢18名にのぼる。どのメンバーも自身の声を既に確立していて、音楽の解釈も深い、個性豊かな面々だ。だからこそ、アンサンブルに寄与でき、歌を引き立てることができる、そんな大人の集まりでもあった。