中川ヨウのミュージック・ダイアリー

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シャルル・アズナブール最終来日公演を観て

[2007.02.28]
 2月9日にシャルル・アズナブールの最終来日公演を観たせいかしら。パリが恋しい、この春です。そんなに何度も行ったことがあるわけではないのにね。
わたしにとって懐かしい場所のひとつなんです。
 今年は大好きなジュリエット・グレコ(4月)も、先日インタヴューすることができた作曲家/指揮者/ピアニストの、ミシェル・ルグランも来日します(10月)から、わたしにとって2007年は「フレンチ・ベテランズ・イヤー」といった趣きなんです。
 まず2月9日に観た、カンバセーション招聘の、シャルル・アズナブールの最終来日公演@東京国際フォーラムの様子から書きましょう。
 さすが名優。さすが名作詞・作曲家はちがう。最も強く感じたのは、そのことでした。
 アズナブールの歌が放つ生命力は力強く、その動きは名優ならではの物語性をもち、わたしはコンサートの間、涙し、笑い、平和への祈りを彼と共有し、幕が降りたときには彼の非凡な人生に感謝したのです。

 アズナブールは「凡人にみえる非凡」と若い頃、評されたそうですね。小柄で、ハンサムというわけでもなく、一度で誰にでも覚えられるような強い個性があるわけでもない。でも、それは彼が映画「ピアニストを撃て」(60年)や、「アラトの聖母」(02年)で演じた役柄のキャラなのであって、彼自身は自由への想いを常に胸に秘めた、個性きらめくクリエイターなのでした。
 コンサートは彼自身が作詞した「移民たち(みんな一緒に)」で始まりました。彼の両親も、アルメニアからの移民だったのです。アズナブールが言っています。
「私は外国にでるときはフランス人としてふるまうが、フランスではアルメニア人の代表として行動する」。
 決意して、そのように生きてこられたんですね。88年にアルメニア地震が起き5万人の死者がでたときには、先頭に立って救済に当たっています。そのとき発表された「アルメニア、汝のために」は100万枚を超えるヒットとなり、ユネスコから「アルメニア終身大使」に任命されました。先にふれた映画「アラトの聖母」(02年)は、トルコによるアルメニア人虐殺の歴史を描いたもの。アズナブールにとって祖国への愛は、センチメンタルなものではなく、戦いの歴史を真っ正面から見つめつづける行いとして表現されてきました。

 ステージに話を戻しましょう。続く「コメディアン」では彼が幼い頃に演技をしていた、旅芸人一座の生活を歌で見せました。父親はオペラ歌手、母親が女優でしたが、両親は非トルコ系民族への迫害をのがれようとNYに向かう途中、シャルルの出産のためにフランスに居をかまえたのでした。でも父親が開いた
レストランも倒産し、シャルル少年は姉とミュージックホール系の劇団にはいり、以来家計を支えてきたのです。
 シャルル・アズナブールの手の動きは大変情熱的で、どの曲でも魅せられました。彼が「コメディアン」で会場を指差すとき、そこに色っぽさがともるのです。年齢のクレジットを見直しましたね。はい、82歳と書いてあります。ちなみにプログラムを見ると、40歳代の彼より今の方がすてき。そんなことって、あるんでしょうか。あるんですね。82歳は、アズナブールにとって、男盛りなのでした。
  アズナブールは俳優としてキャリアをスタートし、40年代は作曲家のピエール・ロッシュとコンビを組んで、デュオ歌手として活躍しました。
 一人で歌うことを勧めたのは、あの天才歌手、エディット・ピアフでした。50年代初頭、アズナブールはピアフに「若者がいた」を作詞し、ジルベール・ベコーに「メケメケ」(日本では美輪明宏さんで知られている曲ですね)、ジュリエット・グレコに「日曜日は嫌い」などを書き、作詞家としてまず認められていたのです。

60年代からはレイ・チャールズに「ラ・マンマ」を書き、ビング・クロスビーには「帰りこぬ青春」と、その活動を世界へと広げます。このようにシンガーとしてだけでなく、作詞・作曲家としての活動、また映画俳優としての活動が、アズナブールの活動を支えてきました。これまで作詞・作曲した曲は100曲以上、出演した映画は60本以上だというのですから、多産なクリエイターでもあるのです。

 「シャンソンは3分間の演劇」と最初に言ったのは、誰なのでしょうか。まさに1曲1幕。「昔気質の恋」ではアズナブールは彼自身の肩に手をまわし、頬よせ踊る熟年カップルを一人芝居で再現します。その歌のあたたかいこと。
 映画「ノッティングヒルの恋人」のテーマ曲にも使われた「忘れじの面影」( 原題She)も、アズナブールの作曲なんですね。知りませんでした。いい歌です。74年にフランス人として初めて、イギリスのゴールド・ディスクを受けたのもこの曲ででした。彼は英語詞で歌いましたが、やはり仏語の説得力には叶いません。と、フランス語がよくわからないわたしが言ってよいのでしょうか。
 「声のない恋」には感動しました。ことばの不自由な恋人に、手話をまじえて、恋心を伝えるんです。大ヒット曲である「ラ・ボエーム」ではハンカチーフを様々なものに見立てて、マイムを見せながら歌います。白い布がリラの花になり、主人公の画家が筆をふく布になる。手品をしながら歌っているようなものじゃありません?でも、難なくやってのけるから「芸」なんです。歌の前にマイムが出ることもありません。そのバランスの妙。
 アズナブールは素晴らしい歌い手というばかりでなく、見事な演出家でもありました。

 ヴァイオリン、フルート/サックスを加えたサウンド構成もよく、15人のバックバンドを使い切っていました。アコーディオンの音色だけはシンセで出さずに、アコーディオン奏者を連れてきた欲しかったけれど。バック・コーラスの女性の一人、カティア・アズナブールは同じ姓でしたから、お嬢さんでしょうか。
 緻密にねられ、幾千回とステージにかけられた歌ばかり。なのに、まるで「初演」のようなフレッシュさで、歌が観客に差し出されるんです。まさに至芸。
 信じられないのは、「最終来日公演」の最初の2文字だけでした。でも会場を埋めた観客は、そのエンターテイメント精神を堪能し、歌を通しさまざまな人生を味わい、大人であることに誇りをもって、豊かな気分で帰路についたことと思います。

 帰路、地下鉄のなかで、わたしが手にしていたプログラムのなかからぱらぱらとフライヤーがこぼれ落ちました。ある男女が、通路に舞う色とりどりの紙を拾ってくださいました。カップルじゃないんです。両側から、2人が駆け寄ってきてくれたんです。やさしい仕草の2人に助けられながら、その方たちもアズナブールのコンサート帰りだと感じました。女性の方は隣の席に座られ、アズナブールの話をしながら下車駅までご一緒しました。そんな帰り道も、アズナブールからの贈り物だったのだと思います。
 お元気で、アズナブールさん。濃密にして素晴らしい人生を生きてきてくださったことに、心からの感謝をささげます。
 もうすぐ、うれしいひな祭り。先日デパートで、収納型のひな飾りを見ました。桃の節句がすんだら、ひな人形だけしまい、普通の飾り棚として使えるものでした。なるほどねと、うなっちゃいました。数年前に登場した、三角コーナーを使う「三角コーナー型ひな飾り」も依然人気。壁面にぴったりつけて使えますから、確かにスペースをとりません。部屋の大きさを考えるとひな壇は置けないし、かといっておびなとめびなだけでは寂しいと言う向きに人気だそうです。
 わたしの省スペース対策も負けてはいません(笑)。今年のひな飾りは、お箸置きにしました。甘酒とひなあられは、ばっちり大型のものを揃えてあります。
権利者の許可を得ずに、複製することを禁じます。
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