「リル・ハーディン・アームストロングをお迎えしましょう!」
司会の男の声が聞こえてくる。わたしは、今日のために生きながらえてきたのだ。ステージに出て、7週間前に天国に旅立ったルイ・アームストロングのレパートリーを弾こう。わたし達が出逢った、シカゴでの追悼コンサートだ。テレビ中継もある。W.C.ハンディ作曲の「セント・ルイス・ブルース」を演奏すると、決めてきた。
わたしが愛した男。音楽の知識を教えた男。有名にした男。そして、捨てられても、忘れられなかった男のために。わたしが彼にとって最上の女であり、妻だったと、世の中に認めさせたい。
あぁ、それなのに、力がでない。ピアノまで何とか歩いてたどりついたけれど、指にまったく力がはいらない。胸が苦しい。身体から、魂がぬけていくのがわかる。
7月6日にルイが天国に召されて以来、わたしのなかで力が失われはじめたのだった。わたしを捨てた男を見返してやる。そう思ったこともあるけれど、相手は天才だ。わたしが太刀打ちできる人ではなかった。正直にいえば、彼がいつ帰ってきてもいいように、胸を張れる自分でいようと、その想いを支えに生きてきた。
葬儀でほうけたように悲しむわたしの手をとり、ルイの四番目の妻、ルシールは、わたしを家族の車に同乗させた。
「そうしないと主人に怒られますから」
ルシールは家庭的で行き届いた女だといわれているが、どうしてわたしが彼女に慰められなければいけないのだ。彼女のやさしさが、よけいにわたしを弱らせた。待つ相手と、戦う相手を一挙に失って、わたしは生きる張りあいを失った。
人は死ぬ前に、走馬灯のように人生を思いだすというのは、本当らしい。初めて会った頃のルイが微笑んでいる。妙な髪型。あか抜けない、埃っぽい服。ニューオーリンズのアクセント。だみ声。丸すぎる目。いくらでも欠点をあげつらえたのに、ルイのコルネットを聴いたとき、わたしはたちどころに恋に落ちた。
あの朗らかな音色。生きていることを肯定する、彼の演奏。
ルイは祖母の手ひとつで育てられ、ストーリーヴィルの歓楽街を庭にして育った。わたしも母子家庭だったから、それがどういうものか、よく知っている。12歳の大晦日にふざけてニューオーリンズの街なかで発砲したルイは、更生施設に入れられ、そこでコルネットを習ったのだ。わたしは神の恩寵を信じる。それも、ルイという天才を世に送るための、天の配剤だったのだろう。
では、わたしも? わたしも、天才に少しばかりのことを教えるために、この世に遣わされたのかもしれない。別れる前にこのことに気がついていたら、わたしの後半生は変わっていたかもしれなかった。
リリアン・ハーディンがルイ・アームストロングに出逢ったのは、1923年、シカゴでのことでした。リルをピアニストとして雇っていた、キング・オリヴァーが、第二コルネット奏者として、ニューオーリンズからルイを呼び寄せたのでした。
ジャズは20世紀初頭、ニューオーリンズを中心とする南部で生まれました。
17世紀からはじまった、奴隷貿易。奴隷達は、人格も文化的な背景も無視され、有無をいわせずにアフリカから南北アメリカ大陸に連れてこられたのです。農作業をしているときに、あるいは乳飲み子に乳をやっているときに「狩られ」、アメリカ大陸に連行されたのです。特にアメリカは急速に農業が発展したため、多くの労働力を必要としていました。そのために他の人間を家畜のように使うとは、人間はどこまで欲深いのでしょうか。
死なない程度に食べさせ、酷使するのが鉄則で、奴隷達に自由はありませんでした。もちろん、音楽も禁じられていました。なぜなら、音楽には生きる力や一体感を生みだします。奴隷に団結されては、農場主も奴隷商人も困るからでした。
ニューオーリンズは18、19世紀を通じ、南部一の貿易港でした。そしてアメリカ最大の奴隷市場でもありました。比較的、ではありますが、プロテスタント系の宗主国をもつ地域に比べ、カトリックのフランスが宗主国だったルイジアナ(州)では、奴隷政策として、音楽に対する規制がゆるかったのです。日曜日の午後、コンゴ・スクエアなどの広場でという制限つきで、歌い踊ることが許されていました。こういった要素が混在して、ニューオーリンズでジャズが誕生する土壌ができあがりました。
19世紀の半ば、南北戦争が起こり(1861-1865)、リンカーンが率いる北軍が勝利します。形のうえでは、奴隷は解放されましたが、実際は仕事をなくした元奴隷が、ニューオーリンズにあふれるという状況をうみました。街の質屋には、南軍ながれの楽器が並んでいました。それまで手製の楽器で演奏していた人々が、元南軍の楽器を手にいれ、軍楽隊をまねて街をパレードして歩くようになりました。マーチは、次第にノリがいい曲調に変わっていきました。彼らの音楽は、黒人の冠婚葬祭には欠かせないものになっていったのです。こうして、ジャズの原型が生まれました。
ニューオーリンズは、1808年に奴隷の輸入が禁止されてからも、交易の場として栄えました。遠くヨーロッパ、カリブ海につながり、ミシシッピ川を下って運ばれてくる物資の交易も行われていたからです。そして船員、乗客、沖仲仕、夜の歓楽街で働く女達と、文化的な背景の異なる多くの人々でにぎわっていたのです。ストーリーヴィル、あるいはフレンチ・クォーターとよばれた区域では、そこでの売春を認める、公娼制度がありました。それ以前は街のあちこちで売春が行われ、問題が多発したため、市が区域を限定することにしたのです。
そのストーリーヴィルがミュージシャンに仕事を提供し、ジャズを育みました。1917年に第一次大戦が勃発し、軍の命令で閉鎖されるまでの約20年間、ジャズとストーリーヴィルとの蜜月はつづきました。
店のまわりではグループが演奏し、客を集め、店のなかでは雰囲気作りに、ラグタイムのピアノが演奏されました。ラグタイムというスタイルで人気を博したのが、ジェリー・ロール・モートンでしたが、彼は後にリル・ハーディンに大きな影響を与えます。
でも何といっても、その頃の花形楽器は、コルネット。ピアノをかついで街をねり歩くわけには、いきませんから。バディ・ボールデン、フレディ・ケパード、キング・オリヴァーと、初期のジャズ・スターはみなコルネット奏者でした。
ニューオーリンズ生まれのルイ・アームストロングは、そのキング・オリヴァーに認められ、教えてももらって、1910年代、ジャズ史に登場するのです。
リリアン・ハーディンは、1898年2月3日、テネシー州メンフィスに生まれました。母親のデンプシー(デシー)は、リリアンがまだ幼い頃に離婚し、白人家庭のコックをして一人娘を育てました。教育熱心で、信心深く、リルが小学校3年のときにはピアノの個人教授をつけていますが、クラシックとスピリチュアルに限定し、ポピュラー音楽はジャズもブルーズもすべて「罪深い音楽」として、演奏することを許しませんでした。
リルがピアノを本格的に学んだのは、フィスク大学でした。1918年の夏休み以降、彼女は大学に戻らずに、母デシーと彼女の再婚相手とともに、シカゴに向かいます。
シカゴに行けば、仕事がある。そのため、ミュージシャンを含む多数の黒人が、北上してシカゴへと向かったのです。リル母娘、キング・オリヴァーもそのひとりでした。南部が農業と綿花産業で栄えたのに対し、シカゴは商工業の街です。シカゴのサウスサイドにはアフリカ系の人々が住み、ジャズも大きな盛り上がりをみせていました。
リルが職を得たのは、「ジョーンズ・ミュージック・ストア」という名の楽譜店。当時の楽譜店はピアニストをおき、客に楽譜を演奏してみせ、買ってもらうという方式をとっていたのです。店主のジョーンズ夫人は、ミュージシャンの仕事を斡旋するエージェントも兼業していたので、あるとき店にジェリー・ロール・モートンがやってきました。
モートンは「俺様がジャズを発明したんだ」と、大風呂敷をひろげる男でしたが、ラグタイム・ピアニストとしては、文句のつけようがありませんでした。リルが後年、第五章まで書いて挫折し、発売されることのなかった「自伝」に書いています。
「彼の細くて長い指が叩きだす躍動、勢いよくふむペダルに、床が揺れた。わたしは興奮し、驚嘆した」
モートンの独創的なピアノを聴いてからというもの、リルは譜面どおりに弾くのではなく、自分のアイデアを加えて演奏するようになり、顧客にも人気がではじめました。
リルの人気に気をよくしたジョーンズ夫人は、彼女をクラリネット奏者のローレンス・デューのニューオリンズ・クレオール・バンドに、ピアニストとして紹介しました。ジェリー・ロール・モートンのようなピアノを弾く、若くてきれいな女性ピアニストを擁するバンドは、いくつかのクラブを経て、シカゴ一のクラブ「ドリームランド」に出演するようになります。そのクラブには、人気ブルーズ・シンガーのアルバータ・ハンターも出演していました。
リルの楽譜店での給料は週3ドルでしたが、ドリームランドでは22ドル50セント。いきなり高給取りになったものの、厳格な母親にはダンス・スクールでピアノを弾いていると、嘘をついていました。
1921年、ドリームランドに、キング・オリヴァーズ・クレオール・バンドの出演が決ったとき、オリヴァーはリルをグループに参加するよう要請しました。こうして彼女は、当時最も有名だったコルネット奏者のピアニストになったのです。
その頃、リル・ハーディンは、ドリームランドで知り合ったワシントンD.C.出身の若きシンガー、ジミー・ジョンソンと恋に落ち、結婚します。でもその結婚は短期間に終わり、ジミーはミシガン州に移っていきました。
リルがルイ・アームストロングにはじめて逢ったのは、離婚後の1923年のことでした。ある日オリヴァーが、故郷に電報を打ったのです。宛名は、ルイ・アームストロング。内容は、「シカゴに来い」。オリヴァーは、第二コルネット奏者にニューオーリンズで手をとり教えたルイをむかえ、グループをもっとパワフルしようと計画したのです。
リルにとって、ルイの第一印象はかんばしいものではありませんでした。「髪型も服も、田舎っぽすぎたのです」。リルは、ルイを床屋と洋服屋に連れて行き、さしずめ専属スタイリストのように、ルイを都会的に変えていきました。
二人のロマンスは、そういった日々のなかで生まれました。リルは彼に楽譜の読み方や書き方など、知っていることをすべて教えました。リルがルイに何かを教えることで、二人の恋は成立していました。少なくとも、リルはそう感じ、必要とされる喜びを味わっていたのでした。男が「教わる関係」にいずれ嫌気がさすということには、考えがおよばなかったのです。
リルは自分の離婚経験をいかして、ルイの離婚手続きにも手を貸しました。ルイの最初の夫人は、ストーリーヴィルで娼婦をしていたデイジーという女性でした。そしてリルとルイは1924年2月4日、リル26歳の誕生日の翌日に、晴れて結婚したのでした。
キング・オリヴァーのグループは、シカゴ一のクラブ、ドリームランドで高い人気を誇っていましたが、ルイ・アームストロングが第二コルネットで参加してからは、人気に拍車がかかりました。白人居住区であるノースサイドからも、ルイを見にくる客があらわれ、そのなかには後に「キング・オブ・スウィング」とよばれるベニー・グッドマン少年もいました。
でも、誰よりもルイの才能に気づいていたのは、妻となったリル・ハーディン・アームストロングでした。ルイ自身は、アイドルであるオリヴァーのとなりでプレイできるだけで幸せでしたが、リルは夫の「第二奏者」としての立場が不当だと感じ、ルイに自分の音楽を追究するべきだと進言しました。
1924年、キング・オリヴァーのグループを離れることになったルイは、フレッチャー・ヘンダーソンのバンドに参加します。場所はニューヨーク。不思議なことに、リルはルイについてはいかず、シカゴに残り、当初はオリヴァーのバンドで仕事をつづけ、後に彼女自身のグループを結成するのです。そしてルイのシカゴ凱旋公演を企画し、「世界最高のトランぺッター」と書いた横断幕を作り、夫をでむかえたのでした。
ルイ・アームスロトングは、リル・ハーディン・アームストロング(ピアノ)、ジョニー・ドッズ(クラリネット)、キッド・オリー(トロンボーン)、ジョニー・センシア(バンジョー)というメンバーで、「ホット・ファイヴ」というグループを結成し、オーケイ・レコードにレコーディングをします。1927年11月が初レコーディングでしたが、メンバーはルイとリルの家でリハーサルをしてから、レコーディング・スタジオに向かいました。
リルは当時「ストラッティン・ウィズ・サム・バーベキュー」という楽しい曲を、書いています。彼女の楽しい新婚生活が、みえてくるような曲なのです。そして1926年、自分の名義で、ホット・ファイヴのメンバーとヴォカリオン・レーベルにレコーディングを残します。ニューオリンズ・ワンダラーズの一員として、米コロムビアにも録音を残しました。
この頃のルイの演奏は、豊潤さを増してすばらしく、リルのピアノもそれにひっぱられるようにして、人生最上のスウィングをみせていました。
ルイが、リルが望んだ通りの音楽活動をはじめた頃から、二人の間に波風が立ちはじめました。ルイの浮気が、すべての発端でした。それも、ひとつやふたつではなかったようです。リルに経済力もなく、何事もルイに従うような女性だったら話の展開も変わっていたでしょうが、リルは嫉妬し、ないがしろにされたとくやしがりました。
1920年代の終盤になると、ルイは自身のグループ、ホット・ファイヴのピアニストに、アール・ハインズをむかえます。リルは、ルイに次いでうまいコルネット奏者だといっていた、フレディ・ケパードを自身のグループに招きました。ミュージシャンにとって、メンバー・チェンジは、明確な別れの合図です。
当時のリルの音楽活動について書くと、1931年、1932年に女性ばかりのメンバーでビッグバンドをシカゴで結成。ついで、男性ばかりのビッグバンドを結成しています。
二人の別離の直接の原因は、無鉄砲な女性の出現でした。ルイがつきあいはじめたアルファ・スミスという女性が、「結婚する」という口約束が守られていないと怒り、ルイを告訴するといってきたのです。ルイは、リルに「すまないが、面倒を起こしたくないので、頼むから別れてくれ」といったそうです。
リルの失望は、ルイの想像以上に深いものでした。
「わたしがあんなに尽くし、いろいろと教えもしたのに」。くやしさが、彼女に妙な行動をとらせます。リルは別居を承諾するかわりに、今度は、リル自身がルイ・アームストロングを不貞のかどで告訴したのです。二人は1931年には別居しましたが、離婚が正式に成立したのは、1938年になってからでした。
また一説には、ルイのマネージメントを手伝っていたリルが、ギャングもからんだルイの仕事から(当時のシカゴでは普通のことでしたが)、離れたがったためだとする説もあります。でも、こちらは後付けの理由でしょう。夫の相手として女房がイヤなのは、ギャングより、若い女だからです。
いずれにしても、ルイはその頃には、リルばかりか誰の音楽的な手助けも必要としなくなっていました。彼はそれまでの集団的即興演奏に代わって、それぞれのメンバーの、「ソロ」での即興を確立しました。スキャットという、歌詞のかわりに、意味のないことばを即興的に重ねた歌でレコーディングしたのも、ルイが最初でした。そして、それまで楽器中心だったジャズ界に、ヴォーカルの魅力を知らしめたのも、ルイの偉業のひとつでした。器楽器で演奏するように歌うルイのヴォーカル・スタイルは、彼につづくすべてのジャズ・シンガーに影響を与えたのです。
離婚後のリルの活動をみてみましょう。1930年代の後半、リルはデッカ・レコードの専属ピアニストに就任し、多くのレコーディングに参加しています。弾き語りをはじめ、自分で歌ったディスクを中心に、合計26枚もレコーディングしています。そして「ジャスト・フォー・スリル」をはじめとした曲も書きました。この曲は1959年になって、レイ・チャールズが歌い、大ヒットします。「バッド・ボーイ」は、1978年にリンゴ・スターの歌でリヴァイバル・ヒットしています。リルは、ストライドのピアニストとしては、時代に遅れ、作曲家としては、早く生まれすぎたのかもしれません。
1940年代に入ると、リルのレコーディング活動はぐっと少なくなります。1945年から1948年までに12作品を録音し、1953年から翌年にかけて6曲、1959年には今までの録音をセレクトしたアルバムを2枚リリースしただけでした。
離婚成立後、彼女は裁縫を習いはじめ、服飾デザイナーの道を志しました。でも、黒人女性であるというハードルの高さもあり、成功することはありませんでした。その「デザイナー時代」にあっても、彼女はルイの舞台衣装をデザインし、縫っていたという記録があります。
シカゴに「リル・アームストロング、スウィング・シャック」というレストランを開いたこともありました。1950年代は、ピアノ教師と、フランス語教師として生活しています。リルは、本当に「教える」ことが好きな女性だったようです。
1952年と1953年にはヨーロッパに赴き、当地での歓迎ぶりに、もう一度ジャズをやりたいという希望をもってシカゴに帰ってきました。しかし、時代は大きく変貌していたのです。ピアニスト、シンガーとしてのカムバックは、実現しませんでした。
不遇だったのは、ルイとて同じことでした。尊敬され、近所の子供たちにも愛される好々爺でしたが、そのスタイルは古いという一言で片づけられていました。現在のように、「ジャズ史を飾る最重要人物」という評価も、まだくだされていませんでした。
ですが、1964年、ルイが歌い演奏した「ハロー・ドーリー」が全米ナンバー1ヒットに輝いたのです。居並ぶビートルズ・ナンバーをぬいての、快挙でした。彼にとって、はじめての全米ナンバー1。そのヒットを喜ぶ、リルの顔がみえるようではありませんか。その頃には、リルの心から恨みがましさが消え、淡々と、あるいは楽しく日々を送ってくれていたら、どんなにすてきでしょう。困ったことがあると、きっとルイが影に日向に、リルを助けたのだろうと思います。彼は見知らぬ他人にもそうしたといいますから、若い日々に「教えを乞うた女性」を見捨てるはずはないからです。
1971年7月6日、心臓と腎臓疾患のため、ルイ・アームスロトングは亡くなりました。そして同年8月27日、シカゴで行われたルイの追悼コンサートの演奏中に、リル・ハーディン・アームストロングは、心臓発作をおこし、天国へと旅立ったのでした。

ホット・ファイヴ

ルイ・アームストロング
『ザ・ベスト・オブ・ザ・ホット5・アンド・ホット7・レコーディングス』
ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
SICP-5055
2002年11月20日発売
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