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中川ヨウのミュージック・ダイアリー

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第二章:ブルーズの女帝 ベッシー・スミス

[2007.08.24]

「ルイ・アームストロングとの共演だけは、誰にでも誇れるね。わたしの最高傑作よ。ルイ、ありがとう。といっても、わたしの歌がよかったんだけれどね。わたしは「ブルーズの女帝」様だからね。

 これで、わたしに酒や態度のことでとやかくいう輩も、黙るだろうね。あの人たちに、わたしの何がわかるっていうんだ。わたしは9歳のときから、ステージに立ってきたんだよ。そこがサーカスであれ、ぼろぼろのテントであれ、どこでも歌ってきたんだ。客のひわいな冗談には、もっとひわいなジョークと歌で、対抗してやった。わたしの人生は戦いだった。ひとときの憩いに、ジンを飲んで何が悪い。みんな飲んでいるじゃないか。でも、マ・レイニーはアル中だね。ひどいもんだ。あんな人に先生ヅラされたら、わたしの名声に傷がつくってことよ。

 わたしが、よく人を傷つける? よくいうよ。傷つけられてきたのは、わたしの方さ。わたしがどなる? ハハハ、わたしの声が大きいのは、生まれつきさ。歌じゃほめられていることじゃないか。人生、楽じゃないからね。だから、わたしはブルーズを歌うのさ。わたしのブルーズは、お宝さ。クスリにもなるし、ひもじかったら食べ物にもなる。いや、いくら歌っても腹の足しにはならなかったね。さぁ、つべこべいわないで、ベッシー様のブルーズを聴いてお行き」

 このモノローグはわたくしの創作ですが、たぶんベッシーなら、こんなこともいったでしょう。もっと汚いことばも、お手のものだったそうです。ステージを降りた彼女の評判はかんばしいものではなく、よく人を傷つけ、自分も傷つき、寛大さも嫉妬深さも人並みはずれていて、そのどちらがいつ顔をだすか、誰にも予測できませんでした。粗野で、乱暴で、騒々しかったという記述もあります。

 でも、彼女のブルーズはちがいます。優しさと明るさ。メランコリーと涙があります。あふれるエモーションは一色ではなく、聴き手の気分にあわせて色を変えます。音楽史的にみてもベッシー・スミスが「クラシック・ブルーズ」を確立したのであり、ブルーズを芸術にまで高めたシンガーなのです。

 きっとベッシーは、人に嫌われるのが怖かったのでしょう。人に去られる前に、嫌われるようなことをして、ほら、あの人もわたしを捨てていったとうそぶく。彼女の人間関係は、そんなことの繰り返しではなかったのでしょうか。
 彼女だけではありません。黒い肌をもつ当時の女達の傷にふれようとすると、その痛みの深さに、わたくしはたじろぎます。想像だけでは手が届かない、大きな闇につきあたるからです。

 それでも、いえ、それだからこそ、ベッシー・スミスのブルーズが、今も聴き手の心をゆさぶるのだと思います。

 ベッシー・スミスと、ロック・ファンを結びつけたのは、ジャニス・ジョプリンでした。ジャニスが最大のアイドルとして、ブルーズの女帝 (empress)、ベッシーの名を挙げていたからです。白人の中流家庭に育ちながら、父親、学校になじめなかったジャニスは、絵を描き音楽にひたる、孤独を愛する少女でした。ジャニスは高校をでると同時に家出しましたが、その頃からベッシーの歌が好きで、27歳で亡くなる数週間前にはベッシーの墓参りに行っていたといいます。

 他にもベッシーの影響を強くうけたシンガーに、ビリー・ホリデイ、サラ・ヴォーン、ダイナ・ワシントン、アレサ・フランクリンがいます。
 ジャニスがいいました。
「ベッシーが空気をみせてくれ、どうやって、その気で歌を充たすかを教えてくれたのよ」

 ここで、ブルーズ全般について語っておくと、1960年代からのポピュラー・ミュージックには、ブルーズの影響が顕著にあらわれるようになりました。ローリング・ストーンズが「コンフェッシン・ザ・ブルース」(ブルースを告白)を歌い、ラヴィン・スプーンフルが「ブルース・イン・ザ・ボトル」(ブルースをビン詰めに)、ボブ・ディランが「死ぬ定めのブルース」を歌いました。今もポピュラー音楽のなかで、ブルーズの威力はみちみちています。正確にいえば、すべてのポピュラー音楽のルーツをたどると、ブルーズにたどりつくのです。

 ブルーズは、アメリカ南部で、農作業や工場労働の辛さをバンジョーやギターの弾き語りで歌う歌として、1800年代に生まれました。奴隷制度がゆるみだした19世紀半ばには、大規模農場 (プランテーション) を渡り歩くブルーズ・メンによって、南部一帯に広まったのです。広大なプランテーションでは、主人たちが住む家と、奴隷たちの居住区は遠く離れていましたから、騒ぎさえしなければ、夜が更けると奴隷達は比較的自由に楽器を手にし、歌い、音楽にひたることができたのです。

 ブルーズと、ジャズの関係を話してください。筆者は、有名なブルーズ・ギタリストでヴォーカリストであるB.B.キングに質問したことがあります。キングは、それなら簡単だと、つぎのように答えました。
「ブルーズは、ジャズのおじさんのようなものだ。そしてブルーズが、すべてのポピュラー音楽の父親だといっていい。ブルーズは、労働の苦しさ、恋、人間がもちうるすべてのエモーションを歌う。率直に。好きなら好き。つらいならつらい。言葉やリズムで、エモーションを飾ることがない。だからいつの時代でも、人の心をゆさぶるんだ」

 さて、ベッシー・スミスは、テネシー州チャタヌーガで、1894年4月15日に生まれました。チャタヌーガとは、アメリカ先住民の言葉で「岩がせまっているところ」という意味だそうで、チャタヌーガは北部と南部をむすぶ鉄道の街として発展しました。

 

 スミス家には10人の子供がいましたが、両親ともベッシーが8歳の誕生日を迎える前に亡くなりました。貧しかった生活がさらに貧しくなり、ベッシーは姉であるヴィオラに育てられました。長兄のクラレンスは幼少の頃から音感がいいベッシーに、歌とダンスを覚えるようにすすめました。1808年に奴隷輸入は全面的に禁じられたはずなのですが、その実1850年代にアフリカから「輸入された」奴隷は、半世紀前より多かったという記録があります。まだ、そんな時代だったのです。彼ら兄弟にとっても、職業の選択枝は非常に限られていました。
 クラレンスは、モーゼズ・ストローク・カンパニーに参加し、旅回り。アンドリューという兄は、チャタヌーガの街角に立ち歌うことで、小銭をかせぎました。

 

 ベッシーは9歳のときに、初めてアイヴォリー劇場の舞台に立ちました。そしてチャタヌーガのストリート・ミュージシャンとして、そのキャリアをスタートさせたのです。こんな逸話があります。ベッシー・スミスがチャタヌーガの街角で歌っているところを、通りかかった先輩ブルーズ・シンガーであるマ・レイニーが耳にし、この娘はものになると、自分のショーに迎え入れたというのです。
 事実は、次のようなことだったと思われます。1912年、兄クラレンスが、自分も働いていたモーゼズ・ストローク・カンパニーのオーディションをベッシーに受けさせ、彼女はダンサーとして雇われます。そこで先に歌っていたのが、ガートルード・マ・レイニー(1886-1939) だったのです。

 

 マ・レイニーは「マ」ではなく「マダム」とよばれることを好みましたが、「ブルーズの母」とよばれただけあり、大酒のみでも面倒見がよく、ベッシーにいろいろと教えたといいます。ベッシー本人は、教えてもらったことをかたくなに否定していますが、毎晩耳からはいってくるレイニーの歌に、まったく影響されなかったということはありえません。
 そこは、ヴォードヴィルという通俗音楽劇の世界。ベッシーは、歌にコメディ・タッチと演劇性をもりこみ、次第に腕をあげていきました。特にリズム感がすばらしく、たっぷりある声量をつかって、朗々と、あるいは躍動をもってブルーズを歌いあげました。

 

 1917年に、アラバマ州セルマの酒場で歌っているところを、米コロムビア・レコードのディレクター、フランク・ウォーカーが聴き、驚嘆し、後に彼はレコーディングの依頼をもって彼女の前にあらわれることになります。とはいえ、それは先の話で、1919年か1920年にはベッシーはアトランタのナインティーワン劇場で、ヒップ・シェイキング・ショー(腰振りショー)の座長をつとめました。
 のちにブルーズの女帝とよばれるベッシーが、そんな場所でと、わたくしも思わないわけではありませんが、それでも他のブルーズ・シンガーに比べれば、ベッシーは屋根のある劇場での公演が多かったほうなのです。ベッシーの教師役をつとめたマ・レイニーは、生涯のほとんどをテントのなかで歌っていたというのですから。ブルーズはままサーカスのそえものとして演奏され、テントや小さな酒場が彼らの通常のステージでした。

 

 ベッシーは大きな女性で、成人すると175センチ、体重は95キロありました。しかも堂々とした態度、キュートな顔立ちで、ルックスでも他を威圧するようなところがありました。豊かな声量とすばらしいリズム感に恵まれ、聴衆にはっきりと聴きとれる発声を身につけてもいました。楽屋では、その声で人をどなりつけ、手まであげるのですから、まわりの人間はたまったものではなかったそうです。

 1920年代初頭になると、ベッシー・スミスはヴォードヴィルの世界では最も人気があるシンガーになっていました。彼女はニューヨークでもボルティモア、フィラデルフィアでも人気者でしたが、南部では人気者という以上の存在でした。ヴォードヴィルの巡業でメンフィスに行ったときは、彼女の歌を聴こうと観客がつめかけ、パレス・シアターを満員にするほどでした。

 人気をあげた彼女に、レコーディングの話がきます。1923年2月、ニューヨークで米コロムビアのためにレコーディングされた彼女の最初のレコードは、「ガルフコースト・ブルース」と「ダウンハーテッド・ブルース」。伴奏をつとめたピニストは、クラレンス・ウィリアムスでした。
 ベッシーは初めての録音スタジオの雰囲気に気圧されてあがってしまい、楽曲もはじめて歌うものだったので、本領発揮というわけにはいきませんでした。でも、そのレコードが売れに売れたのです。「ダウンハーテッド・ブルース」は、前年アルバート・ハンターの歌で録音されていたにも関わらず、半年間で78万枚以上のセールスをあげました。このヒットが、ベッシーをそれまで以上のスターダムに押しあげました。

 ベッシーのブルーズは、驚くことに、白人にも愛されました。1923年から最後の録音になる1933年の間の10年間に、160 曲近くを米コロムビア・レーベルでレコーディング。ライヴ・パフォーマーとしての人気もうなぎのぼりで、彼女に支払われたギャラはアフリカ系では破格の週2000ドルでした。アメリカ中の会場を満員にすることができたのですから、そのギャラも妥当なものでした。
 彼女は、当時最高のジャズ・ミュージシャンとのレコーディングを、進んで行いました。1920年代の原始的な録音装置で、すばらしい歌声を残せたのは、彼女の声量によるところが大きかったのです。

 

 1925年、ベッシーはルイ・アームストロングと、「セント・ルイス・ブルース」を録音します。歴史的な名演です。1914年にウィリアムス・クリストファー・ハンディ(1873-1958) によって書かれたこの曲。W.C.ハンディは「ブルーズの父」を自称したことでも知られる、作曲家、コルネット奏者でした。
 ベッシーの録音を聴くと、洗練されたクラシック・ブルーズの典型であり、彼女の声とルイのコルネット・ソロが、対等に旋律線をえがいています。二人のアクセントのとり方はどこか似ていて、それがまたすばらしく、フレージングも美しい。それがこの演奏をジャズとブルーズ、双方の領域で、記念碑ともいえる演奏にしています。

 1920年代から1930年代にかけて、12小節でつくられるブルーズの形式が定着しましたが、他のさまざまなブルーズの形式がなくなったというわけではありませんでした。この「セント・ルイス・ブルース」は、中間の間奏部をはさんで、前後に12小節のブルーズ形式をもつ好例です。ベッシーのすばらしいリズム感と音程が、天才ルイを共演者にむかえたとき、工夫と即興のきらめきをもってさらなる高みに放たれたのでした。

 ジャズとブルーズは、その後も「親密な親戚関係」をつづけました。ジャズとブルーズが同じ土壌で育っていた1930年代のカンザス・シティで、再び花開くのです。そこではブルーズ・シンガーが、ジャズ・バンドをバックに歌うことは、ごく自然なことでした。ビリー・ホリデイをシンガーとして擁していた、カウント・ベイシー楽団をその筆頭にあげることができるでしょう。

 1929年10月26日、ウォール街の株の暴落に端を発した世界恐慌は、レコード会社はもちろんのこと、すべてのミュージシャンを直撃しました。ベッシー・スミスとて、例外ではありません。栄光の1920年代に比し、株価に比べれば下げ幅は小さなものでしたが、ベッシーの人気は下落していったのです。それでも南部や小さな町では集客率がよかったのですが、都市部からの依頼はめっきり減りました。
 W.C.ハンディの依頼で、映画「セント・ルイス・ブルース」に出演もしました。それでも人気は下り坂。それは世界恐慌のためばかりではなく、彼女が歌っていたクラシック・ブルーズが時代遅れになったことの証左でもありました。

 1937年9月25日、メンフィスでの公演後、ベッシーは夫でマネージャーでもあったジャック・ジーと、ハイウェイ61を走っていました。同乗者は、愛人でライオネル・ハンプトンの叔父にあたる、リチャード・モーガンだったという説もあります。彼女の車がミシシッピ州クラークスデイルにさしかかったとき、対向車線のトラックに衝突。彼女は腕をもがれ、肋骨にもひどい損傷をうけました。すぐにG.T.トーマス病院に運ばれましたが、出血多量のため、翌26日の朝、息をひきとりました。享年43。「スウィングのシンガー」として再出発しようという、計画がもちあがっていた矢先の事故でした。

 「ブルーズの女帝」は、その称号を最後まで守り、ペンシルヴァニア州シャロン・ヒルにある、マウント・ローン墓地に埋葬されたのでした。ジャニス・ジョプリンが手をあわせたのも、この墓地でした。  1989年、その死から50余年後、ベッシー・スミスは「ロックの殿堂入り」を果たし、名誉を讃えられたのでした。

ベッシー・スミス
『マーティン・スコセッシのブルース』

ソニー・ミュージックエンタテインメント
MHCP-2056
2003年10月22日発売

権利者の許可を得ずに、複製することを禁じます。
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