中川ヨウのミュージック・ダイアリー

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第三章:ビッグバンドからビバップの温床へ メアリー・ルー・ウィリアムス

[2007.09.20]

 今日、めずらしく雑誌社がインタヴューにきた。あなたの音楽的功績について、うかがいたい。記者は、そういった。わたしの功績か…。

 そうはいっても、その記者はすでに「わたしの功績」が何なのか、決めつけていた。アフリカン・アメリカンの女性として、はじめて作曲家、アレンジャーとして認められた人。スウィング時代に在籍していたアンディ・カークのバンドや、デューク・エリントン、ベニー・グッドマンに曲やアレンジを書いたこと。そしてビ・バップが生まれようとしていた時代に、わたしのアパートによく集まっていた、セロニアス・モンクやディジー・ガレスピーに与えた影響。

 またその話ね。わたしの功績って、長生きしたことだけなのだろうか。時代との関連でしか、わたしの仕事は語られない。みんな、ジャズ史に残る彼らのことが聞きたいだけで、聞くだけ聞くと、わたしの名前は忘れ去る。わたしはメアリー・ルー・ウィリアムス。どうです? わたしの名前を知っている?

 正当に評価されていないと、思っているわけではないの。何が正当かなんて、神の視線をもってみなければ、解らないことだから。ただ、交友録ではなく、このわたしという人間を知りたいと思う人はいないのだろうか。

 人間嫌い?
そうでもないと思うわ。演奏しなくなった? それは、そうね。ジャズの環境、たとえば酒飲み相手のクラブの環境や労働条件はひどいと思う。わたしを救ってくれるのは、人でもジャズでもなく、神の恩寵しかいないと気がついたところだから。

 膝をついて神に祈るとき、わたしははじめて平安な、充たされた気持ちになることができた。マリアさまの足元に頭をたれ、許される喜びに震えた。マリアさまが主の御子、イエスをお生みになったときのご苦労を想うと、わたしは涙がとまらない。マリアさまにおすがりして、生きる光を見いだした。生きることだ。とにかく、生きなければ。

 わたしの名前は、メアリー・ルー・ウィリアムス。覚えていてほしいと、今なら素直にいえるかもしれない。

小さなピアノ・ガール

 デューク・エリントンが、メアリー・ルー・ウィリアムスのことを「ジャンルを超えた人だ」と評価しています。「音楽には、いい音楽とそうじゃない音楽しかない」と語り、ジャンルの垣根のなかにおしこめられることを終生嫌ったエリントンにとって、それは最高の賛辞だといえるでしょう。『A列車で行こう−デューク・エリントン自伝』(晶文社、原題『Music is my Mistress』)に、次のように書いています。
「メアリー・ルー・ウィリアムスは、永久的にコンテンポラリー(現代的)だ。彼女の作曲とピアノは、いつも“時代”より少し先をいっていた。彼女の音楽には常に高いクオリティがあったが、それは時代を超越したものなのだ」
 確かに、メアリー・ルー・ウィリアムスを一時代のスタイルで語ることはできません。ブルーズ、ブギウギ、ストライド・ピアノ、そしてスウィングにビ・バップと、時代とともに彼女が変遷をとげたからです。それは彼女が長きにわたって音楽に携わったから可能になったことではありますが、と同時に、彼女の才能と努力、フレキシビリティがあってこそ、なされたことです。

 1910年5月8日、メアリー・エルフリーダ・スキャッグス、後のメアリー・ルー・ウィリアムスはアトランタに生まれました(日本語ではメリーと表記されることもあります)。3歳か4歳になる前に、母親がもっていたハーモニュームというオルガンに似た楽器で、母親が弾いたとおりのメロディを弾いてみせたそうです。驚愕した母親が、見て、見てと近所にふれてまわり、おかげでメアリーは近所で評判の女の子になりました。

 5歳のときに母親の再婚にともないピッツバーグに移り、彼女は寂しさと、幼い心に影を落としはじめた「人種差別」の痛みをぬぐうかのように、いつもピアノに向かっていました。8歳のときには、既にメアリーは「イースト・リバティの小さなピアノ・ガール」として、かなり知られたミュージシャンでした。演奏会場はお祭りや、サイレント映画のピアノ伴奏、パーティなどで、一度きりでしたが売春宿でも演奏したといいます。ファッツ・ウォーラー、ジェームス・P・ジョンソンの初期のレコードから影響を受け、ワルツ、マーチ、軽いクラシックに涙を誘うバラードまで、幅広いレパートリーをもっていました。

 彼女は13歳のときには、ヴォードヴィルの旅回りミュージシャンとして仕事をはじめます。19世紀からつづくショー・バンドの形式をもつ「バジン・ハリスとヒズ・ヒッツ・アンド・ビッツ」に代役としてやとわれたのです。そのバンドのリーダーは、ジョニー・ウィリアムスというサックス奏者。夏休み中だから、母親が仕事を許可したことになっていますが、その実、家族の生活のためにはじめたテント回りでした。

スウィング時代

 数年後には、メアリーはリーダーだったジョニー・ウィリアムスと結婚し、メアリー・ルー・ウィリアムスと名乗るようになります。そして彼が結成した「シンコペーターズ」に、参加します。このグループが、人気ダンス・チームである、セイマー&ジャネット・ジェームス夫妻のバックバンドに起用され、その夫婦に便乗して人気グループになりました。メアリーとジョニー・ウィリアムスは、メジャーなヴォードヴィル・サーキットに組み込まれるようになったのです。

 その後二人は、アンディ・カークというベーシストが率いる「ダーク・クラウズ・オブ・ジョイ」に参加します。このバンドは、カンザス・シティを本拠地にしていました。そしてこの「ダーク・クラウズ・オブ・ジョイ」で、リーダーのアンディ・カークとメアリー・ルー・ウィリアムスは、大いに名をあげるのです。

 音楽教育を受けていたカークは、メアリーの才能を見抜き、作曲をするよう勧め、楽譜の読み方と書き方を教えました。彼女の最初の作曲は〈フロッギー・ボトム〉というブルーズです。1929年、ブランズウィック・レコードのスカウトの目にこのバンドがとまり、8曲レコーディンされることになります。

 もちろんメアリーにとっても、初レコーディング。ジョニー・ウィリアムス率いる「メンフィス・ストンパー」が2曲、アンディ・カークの「トゥウェルヴ・クラウズ・オブ・ジョイ」が6曲録音しましたが、そのうち3曲がメアリーによって作曲、編曲されたものでした。その3曲とは〈ロッタ・サックス・アピール〉〈メス・ア・ストンプ〉と〈フロッギー・ボトム〉です。

 そして1930年4月には、彼女にとって初めてのリーダー作でありソロ・ピアノ・アルバムである『ドラッグ・エム』が、シカゴでレコーディングされました。
 1929年に端を発した世界恐慌は、ルーズベルト大統領が就任する1933年までつづきました。この年、悪名高く、アメリカの都市にギャングをはびこらせた「禁酒法」も、やっと廃止されるのです。

 メアリー・ルー・ウィリアムスが初レコーディングした頃は、その大恐慌のまっただ中。勢いづいたものの、次のレコーディングまで、数年待たねばなりませんでした。1942年にカークのバンドを離れるまで、メアリーは数々の曲を書きました。〈ステッピン・プリティ〉〈ウォーキン・アンド・スウィンギン〉〈メリーズ・アイデア〉〈スクラッチン・ザ・グレイヴェル〉。そしてアンディ・カークの「トゥウェルヴ・クラウズ・オブ・ジョイ」は、“レディがリードしスウィングさせるバンド”とよばれ、カウント・ベイシー楽団誕生直前のカンザス・シティのジャズ・シーンを彩ったのでした。

 メアリーの音楽は、カンザスにとどまらず、全米に流れたといっていいでしょう。彼女の才能を耳にしたビッグバンドのリーダー達からの依頼が、引きも切らなかったからです。ベニー・グッドマンのためには、〈ロール・エム〉や〈キャメル・ホップ〉をプロデュースし、デューク・エリントン楽団のためには〈ブルー・スカイ〉のアレンジを担当しました。他にもこの時代、彼女の依頼者リストには、ルイ・アームストロング、アール・ハインズ、トミー・ドーシーといった名だたるジャズ・ジャイアント達の名前がありました。

 メアリー・ルー・ウィリアムスはジョニー・ウィリアムスと離婚後、トランペットのハロルド・“ショーティ”・ベイカーと結婚し、その後3度目の結婚相手に古くからの音楽仲間であるアンディ・カークを選んでいます。
 彼女がハロルド・“ショーティ”・ベイカーとつきあいはじめたのは、彼がアンディ・カークのバンドに在籍しているときで、結婚してから二人は六重奏団を結成しました。ショーティは1942年から永きにわたって、デューク・エリントン楽団に在籍するのですが、その間にメアリーもまたエリントン楽団のアレンジを書き、編曲スタッフとしてツアーに同行しました。

 エリントンはアメリカの三大作曲家のひとりであり、優れたビッグバンド・リーダーで、自ら団員のクビを切ったことは一度もなく、その家族の面倒を見、自分ひとりで作曲した曲も、印税を分けたさに、メンバーとの共作とクレジットするほどでした。そんな面倒見がよいエリントンでしたから、メアリーの場合も才能を評価するとともに、ショーティの夫人としてツアーに同行するのが最上だろうと、配慮したと想像されます。

 ショーティとの離婚後、メアリーはニューヨークに落ち着きます。そしてグリニッジ・ヴェレッジにあるナイトクラブ『カフェ・ソサエティ』に雇われました。そこはジャズ、ブルーズ、コメディと様々な演し物がかけられる、当時としては大変ユニークな人気クラブでした。あのビリー・ホリデイが〈ストレンジ・フルーツ(奇妙な果実)〉を歌い、大評判をとるのもこの店でのことになります。アップタウンに姉妹店である『カフェ・ソサエティ・アップタウン』が開店すると、メアリーはオーナーのバーニー・ジョセフソンの依頼で、両方の店を行き来し、ピアニストとして観客にも愛されました。

 1945年、メリーは週一のラジオ番組をWNEW放送局でもちました。題して「メリー・ルー・ウィリアムスのピアノ・ワークショップ」。『カフェ・ソサエティ』のオーナー、ジョセフソンの助けがあってのことでしたが、当時のメディアといえばラジオが王様。彼女はその機会を利用し、週一で〈ズディアック組曲〉の書き下ろしをはじめ、一楽章づつ番組で演奏、発表したのです。その年には、78回転レコードの2枚組で、〈ズディアック組〉はフォークウェイズ・レコーズからリリースされました。そればかりか、同年の大晦日、ニューヨークのタウン・ホールで初演。1946年の6月には、70人編成のニューヨーク・ポップス・オーケストラを従え、全曲ではなく3楽章のみではありましたが、カーネギー・ホールで披露しました。カーネギーといえば、クラシックの殿堂です。メリーの名声が、今まで以上に高くなったことはいうまでもありません。

ビ・バップの芽を育てる

 この時期のメアリーは、活動意欲がみなぎっていました。オーケストラとの共演に満足することなく、芽生えようとしていたビ・バップや、モダン・ジャズの潮流に、人に先んじて身を投じたのです。実際には、彼女が牽引した面もありました。

 彼女のハーレムにあったアパートは、「サロン」の様相を呈していました。彼女の音楽的な広い知識や意見を求めて、その後ビ・バップの創始者になるミュージシャン達が、しょっちゅう集っていたのです。彼女が「サロン」の客に選んだミュージシャンは多くはありませんでしたが、ディジー・ガレスピー、セロニアス・モンク、バド・パウエル、タッド・ダメロンという次世代のジャズを担う人々が常連でした。
 彼女達は、そこで常に熱いジャズ談義を戦わせていました。ジャズの未来は? ジャズの可能性は? 意外にも、(即興で演奏をする)ジャム・セッションはなし。もっとシリアスな雰囲気だったといいます。1940年代後半、メアリー・ルー・ウィリアムス宅は、ビ・バップの温床になったのです。

 彼女は、もちろん彼らと演奏もしました。クラブで、朝になるまでジャム・セッションです。ピアニストとしては、どうでしょう、セロニアス・モンクやバド・パウエルの革新的な演奏に、目を見張り、同時に彼らほどの個性が自身のピアノにあるか、振り返る時代になったのではないでしょうか。

 ビ・バップの「マザー・スピリット」とも呼び称された彼女でしたが、1950年代がはじまる頃には、ある意味希望を失っていました。オスカー・ペティフォード(ベース)、ケニー・クラーク(ドラムス)と組んだトリオに、彼女の未来へのヴィジョンをこめ、ニューヨークの『ダウンビート・クラブ』に出演しますが、このバンドは短期間しか存続しませんでした。レコーディングもうまくいかず、過去の楽曲の権利を主張しても認められず、メアリーは酒とドラッグが飛び交うジャズ界に嫌気がさしてしまうのです。

 そんな彼女は、1952年、「ビッグ・リズム・ショー」の一員として、ロンドンからスタートするイギリス・ツアーに参加します。2週間の予定が、結局2年間母国に戻りませんでした。生まれてからこのかた苦しめられてきた、人種差別があまりなく、またジャズという音楽へのリスペクトも高かったヨーロッパが、当時のミュージシャン、特に女性としての苦労もあっただろうメアリーにとってどれほど楽だったか、推察できます。

 ロンドンではミュージシャン組合の規約にはばまれ、思うような活動ができなかったメリーでしたが、ヴォーグにレコーディング・シリーズを残し、渡英したサラ・ヴォーンのすばらしい歌の伴奏者としてステージに立ちました。ルイ・アームストロングのヨーロッパ・ツアーにも参加要請されましたが、こちらはなぜか断っています。

 メアリーは後年、パリに居を移してからが最も居心地がよく、ハッピーだったと語っています。フランスには彼女の活動をはばむようなミュージシャン組合はありませんでしたし、1953年6月に行われたコンサートなどで、多くのファンを得たからでした。

 1954年12月、アメリカに戻った彼女は、好きではないナイトクラブに戻り、演奏して収入を得る必要がありました。音楽への興味が目減りしていくのと反比例するように、信仰心がふくらんだこの時期。1955年にバプティスト派の教会に通いはじめ、たびたびハーレムの街角に立って、「説教」するメリーを見かけたという証言が残っています。信仰のよりどころは、ローマ・カトリック教会に落ち着き、それは終生変わりませんでした。

 メアリーを音楽に連れ戻したのも、彼女自身の予想に反して、信仰でした。彼女はディジー・ガレスピーの紹介で出逢った、ジョン・クローリー師との出逢いを通じ、「わたしのピアノ演奏を、隣人のために、祈りのように捧げよう」という心境にいたるのです。
 1957年5月7日に、メリーは洗礼を受けました。洗礼を施したのは、アンソニー・ウィズ牧師。その後指導を受け、親友でガレスピー夫人であるローレンスの立会いのもと、聖餐を受けました。

 1957年、メアリーはガレスピーのビッグバンドのゲストとしてニューポート・ジャズ・フェスティヴァルに出演します。久々のコンサートでした。そして翌1958年、問題をかかえたミュージシャンを、音楽活動に復帰させる目的で「ベル・カント財団」を創設。楽ではない生活のなかで、収入の一割を財団運営のためにあてたのでした。

光のなかの晩年

 メアリー・ルー・ウィリアムスの完全復帰は、1964年まで待たねばなりませんでした。その対象が何であれ、極めないと気がすまない彼女は、信仰とそのための学びをすべてのことに優先させていたのです。しかし、1964年にニューヨークの『ヒッコリー・ハウス』にレギュラー出演が決まってからは、完全復帰をとげます。メアリーは新旧ファンから歓迎され、彼女自身も「喜びをもって」ピアノに向かいました。その復帰の影の立役者は、修道士であるピーター・オブライエン牧師でした。メアリーより23歳若いオブライエン師は、彼女の助言者になるばかりでなく、ビジネス面での事務、交渉をも担い、彼女のマネージャーをつとめたのです。

 人生は最後まで、人にレッスンを課すようです。1968年にベル・カント財団の存続が不可能になり、彼女が経営していた小さな店が閉店の憂き目にあいました。しかし、彼女は二度と落ち込むことなく対処し、その後もジャズの普及に身を捧げました。ハーレムで立ちあげられたビリー・テイラーの「ジャズモービル・プログラム」に参加し、人気子供テレビ番組である「セサミ・ストリート」にも出演して、ジャズの楽しさをより広い層に知らしめたのです。

 1960年代後半、そして1970年代にかけて、彼女は再びデューク・エリントン、ベニー・グッドマン、ウディ・ハーマン、カウント・ベイシーの各ビッグバンドのためにアレンジを書きました。ベン・ウェブスター、ジョン・ルイスといった、旧友でもあるジャズの巨人達と共演を果たしました。そればかりか、1971年にはアルヴィン・アイリーのダンス・カンパニーとコラボレートし、1977年には、アヴァンギャルドなピアノでジャズ界に竜巻をおこした、セシル・テイラーとカーネギー・ホールの檜舞台に立ったのでした。

 1978年にはホワイト・ハウスに招かれ、複数の大学から名誉博士号を授与されました。1980年にはデューク大学からの依頼を受け教鞭をとりはじめ、その仕事は1981年5月28日、ノース・カロライナ州ダーハム市で永眠するまで続けられたのです。

 メアリー・ルー・ウィリアムスの功績は、「長生き」にあったのではありません。いくつもの時代を、その率直さと意志で乗りきり、スタイルの変遷を経ながら、つねに自分自身の音楽を探求して前進をつづけた。結果的に、多くの人を励ました彼女の人生すべてが、悩みもふくめて「宝」なのでした。今なら、読者であるあなたとともに、こう彼女に告げることができるでしょう。
 メアリー・ルー・ウィリアムス、わたくしたちはあなたの名前を知っているだけではなく、あなたのことを忘れることはないでしょう。

メアリー・ルー・ウィリアムス

メアリー・ルー・ウィリアムス
『アンデスの黒いキリスト』

ユニバーサルミュージック クラシック
UCCU-3065
2006年9月27日発売

権利者の許可を得ずに、複製することを禁じます。

メアリー・ルー・ウィリアムス

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