ジャズの世界でも、表舞台に登場する女達ばかりでなく、裏でジャズを支えた人が、数限りなく存在しました。ミュージシャンの妻や恋人として。あるいはプロデューサー、ジャズ・クラブのオーナーとして。そして、ファンとして。ニカという名前も、その一人として記憶にとどめたいと思います。
あだ名は、ニカ。わたくしは、このあだ名が好き。誰が、キャサリーン・アニー・パノニカ・ド・ケーニグスウォーターなんていう、長い本名を好きになれるというのでしょう。わたくしの名が、もし後世に残るとしたら、チャーリー・パーカーとセロニアス・モンクを看とった者としてでしょうか。
そうでないとしたら、セロニアス・モンクが作曲してくれた〈パノニカ〉や、ホレス・シルヴァーの〈ニカズ・ドリーム〉をはじめ、多くのジャズ・ミュージシャンが曲を書いてくれて、タイトルに名前を使ってくれたからでしょう。ソニー・クラークは〈ニカ〉、ジジ・クライスは〈ニカズ・テンポ〉を書いてくれ、ケニー・ドーハムは〈トニカ〉、ケニー・ドリューは〈ブルース・フォー・ニカ〉、バリー・ハリスは〈インカ〉、フレディ・レッドは〈ニカ・ステップス・アウト〉でしたね。トミー・フラナガンが作曲してくれた〈セロニカ〉を忘れるところでした。モンクとわたくしの名前をつけた曲名です。ほんとに、わたくしは、幸せなジャズ・ファンですね。ニカだというと、ジャズの世界のなかでは、皆さんよくしてくださいます。
実は、結婚前の名前のほうが、もっといやなのです。キャサリーン・アニー・パノニカ・ロスチャイルドなのですから。わたくしは、1913年12月10日、ロンドンで生まれました。パノニカという変わった名前は、父であるチャールズ・ロスチャイルド卿が、研究していた蝶と蛾の生育場所として知られる、中央ヨーロッパにあるパノニアン沼、ハンガリー語でいうカラパチアン沼からとられたのです。
沼ですよ、よりによって沼なんて。ハンガリー系貴族の出である母、ロジシカとの間の第三子として生を受けたのですが、父の研究と母の生地にちなんだ名前と思えば今は納得できますが、子供の頃はロンドンやパリのお嬢様学校で、母親似のこの顔と名前のことで、ずいぶんいじめられましたね。
もちろん、苗字のほうがもっと問題だったわけです。ロスチャイルドであるということは、ユダヤ系であるということを意味しますから。今でこそロスチャイルド家は世界最大の財閥といわれていますが、元来1743年ドイツに生まれたロスチャイルド一世は、ユダヤ教のラビとして教育され、のちに両替屋になり、運よくフランクフルトの領主だったヘッセン侯爵家のウィリアム皇太子、のちのウィリアム九世の御用商人になって出世したのです。こんなことを平然と口にするものですから、わたくしは若い頃から一家のはみだし者でした。
そのロスチャイルド一世には五人の息子がいて、ヘッセン侯爵家の銀行業務の代理人になっていた一世が、息子たちを戦略的にヨーロッパの各首都に派遣して、支店を作らせたのです。長男が本家のフランクフルト、残りの四人がウィーン、ロンドン、ナポリ、パリにそれぞれ渡り、その国の政府と癒着して、政治的にも活躍し、爵位を得たというわけです。兄弟ならではの連携プレーもあったようでして、今の多国籍企業の先駆けですね。
実際、実家のことはうんざりなのです。ロスチャイルドの恩恵を受けながら、何というこという。両親も、そういっていました。でも、わたくしはジャズに出逢うまで、いえ、その前に第二次世界大戦中にレジスタンス運動に手を貸すまでは、自分が必要とされる気分を味わったこともなければ、幸せとも無縁でした。
ロスチャイルド一族であることが、どれほど窮屈なものか。有り余るお金に囲まれて暮らすということが、どれほど退屈なものか。あなたには、わからないかもしれません。わたくしは、お金の話をしたことがありません。要らぬ妬みを買うからとお思いかもしれませんが、その実、する必要がないからなのです。でも、お聞きになるのであえて申しあげますが、巨万の富があっても、幸せにはなれないのです。まま、幸福の妨げになる、と申しあげておきましょう。B級映画が好きな、遺産相続問題ではありません。日常の小さな幸福を妨げがちなのです。
たとえば、想像してみてください。友人とセーターを買いに行くとしましょう。彼女は、どちらの色が自分に似合うか、迷います。わたくしには、迷う必要がないのです。同じデザインで色違いのセーターを、2枚、3枚と買って帰るからです。名前を告げれば、お金を払う必要さえありません。そのとき、わたくしが失うのは、選択眼と友人の両方かもしれません。
お金がなければ、あの車がほしいからがんばって働こうという、意欲につながります。でも、わたくしたちには、どんな車だって、何台も買えるのです。先祖はちがいますが、わたくしたちの代になると、勤労意欲とは無縁でした。
兄のヴィクター・ロスチャイルド(のちの三代目ロスチャイルド男爵)は、男爵という爵位によって労働党の上院議員をつとめはしたものの、生物学者としての研究に熱心で、金融業には手を出さずじまいでした。姉のミリアム・ルイーザ・ロスチャイルドは、高名な動物学者になりました。二人とも、わたくしとちがって、ロスチャイルド家の一員であることに不満をいいませんでした。表向きは、ということですけれど。
わたくしは16歳でパリの学校に入学し、18歳のときには社交界デビューと、一見順調な貴族らしい娘時代を過ごしたのです。
わたくしが憧れ、欲し、でも長じるまで手に入れられなかったのは、意欲、パッション、自由、リラックスした気分といったものでした。母には叱られました。何でも手に入るのだから、手に入りうる、形のあるものを望むようにと。目の前に海があるのに、なぜあなたは、手に入らないコップ1杯の水を欲しがるの。そう問いかける母の眼には、ハンガリー系らしいメランコリーが宿っていました。母もきっと知っていたのです。人には、コップの水が必要なことを。海水は、のどを潤さないことを。
1935年、わたくしはフランスの外交官で、のちにレジスタンス運動のヒーローのひとりになる、ジュールズ・ド・ケーニングスウォーター男爵と結婚しました。趣味ではじめた、飛行機操縦がとりもった縁でした。第二次世界大戦中は、二人の仲はよかったのです。彼は運動に奔走していましたし、わたくしものちにフランスの大統領になるシャルル・ド・ゴール (在任期間1958-69年)のもとで、懸命に働いていました。もちろん、生涯はじめての仕事でした。その頃を懐かしむと、さすが戦争もビジネスにするロスチャイルドだと陰口をたたかれるでしょうね。でも戦時中、わたくしは胸のうちに熱くたぎるものをはじめて自分の肌で感じ、同輩を守りたいという使命感をもち、生きている実感を味わったのです。
わたくしたち夫婦は五人の子を授かりましたが、1951年に別居し、わたくしはニューヨークに移りました。そして五番街にある、ホテル・スタンホープのスイート・ルームに住んだのです。
ジャズを聴きはじめたのは、兄ヴィクターの影響でした。彼はジャズ・ファンで、自分でもピアノを弾いていたのです。テディ・ウィルソンに師事したことがあるといっていましたが、真剣な「師事」だったのかどうか、わかりませんね。
第二次世界大戦後、ミュージシャン達がアメリカからパリにやってきました。ヨーロッパへツアーに出て、人種差別もなく、ジャズが芸術として受け入れられていることに、多くのジャズ・ミュージシャンが感銘を受け、自信をもったのです。
そんな戦後のパリで、わたくしは生のジャズに触れました。聴くたびに心を打たれ、しばしばマンハッタンにも聴きにいくようになりました。でも、本格的に聴き込むようになったのは、やはりニューヨークに移ってからでした。
わたくしの心を捉えたのは、ビ・バップやハード・バップと呼ばれるジャズ。あの疾走感や、高揚が、わたくしのミッシング・ピースをうめてくれたのです。ビ・バップの創始者たち、セロニアス・モンクや、チャーリー・パーカーとは特に親しく、温かな友情を育みました。ホテル・スタンホープの部屋でジャム・セッションを開き、食べ物もふんだんに用意して、一緒に酩酊したものです。ビ・バップ男爵夫人などと、呼ばれました。
ジャズには、わたくしが憧憬するすべての要素がありました。熱気。自由。即興。旋律にしみこんだ涙。ばか騒ぎ。楽しい仲間。音楽に対する献身。といっても、わたくしがジャズをすぐ理解したとは思わないでください。実際、わからなかったのです。でも、わからないから、惹かれるということがあるじゃないですか。わかりやすくて楽しげな、ビッグバンドによるスウィング・ジャズには惹かれなかったわたくしが、もっと複雑なビ・バップに魅了された。きっと、好奇心が強いのですね。
アメリカ国内のジャズへの無理解、人種的な差別も、わたくしの小さな正義感に火をつけました。ロスチャイルド家はダイアモンド取引にも関わっていましたから、南アフリカ共和国をはじめ、さまざまな国で搾取していたことにもなり、アフリカ系の人々に申しわけないといった気持ちをもってもいたからです。
でも、それ以上に、驚くことに、ジャズにはわたくしが自分でも気がつかないでいたトラウマ、心の傷を治すパワーがあったのです。セロニアスのピアノを聴いていると、もういいよ、いいんだよという、許しを感じました。チャーリー・パーカーのアルト・サキソフォンには、生きる喜びを教えてもらいました。ロスチャイルド一族のはみだし娘が、ジャズに助けてもらったのです。ジャズは、わたくしの恩人なのです。恩人にお返しをするのは、当たり前のことです。
わたくしには子供が五人いますが、ジャズには子供たちに注いだのと同じような、無償の愛を感じています。いえ、子供たちには愛という代償を、やはりどこかで求めていますね。対象がジャズという音楽で、個人ではないから、無償の愛を貫いていられるのでしょう。ジャズメンのことも、愛すべき人たちだと思います。でも、世間の風聞とはちがって、わたくしは誰の愛人でもなく、誰とも恋愛関係にはなりませんでした。これからも、それは変わりません。
なぜか?
ミュージシャンたちは、友人にするには温かく、親切で申し分ありませんが、恋人や夫にしたら最悪だからです。不安定な収入は、わたくしには問題になりません。お酒は、わたくしもいただくほうですから、何も申せません。女遊び、創造のための奇妙な行動…そういったことではなく、女性にとっては、もっとひどいことがあるのです。彼らにはどんな恋人より大事なものがあるのです。ええ、ジャズです。彼らにとって、ジャズ以上に大切なものはないのですよ。自分が、好きな人のナンバー・ワンになれないのですよ。そんな悲しいことが、あるでしょうか。芸術家の妻や恋人たちは、そのことに目をつむるか、受け入れるしかないのです。
わたくしは誰の愛人でもありませんから、彼らに心ばかりの援助をすることをためらいませんでしたし、彼らも終始わたくしに優しく、節度をもって接してくれました。ヨーロッパで経験したような、貴族同士の見栄のはりあいや嫌みとは、無縁の生活。わたくしの容姿や、ユダヤ系であることを、ヨーロッパではどれほどいわれたことでしょう。わたくしはジャズ・ミュージシャンたちに囲まれていると、心からリラックスし、安心していられたのです。
1940年代からジャズ・シーンに起こった「革命」について、少し話しましょう。わたくしは、セロニアス・モンクがCBSレーベルに残した『クリス・クロス』という名作に、ライナーノーツというのかしら、文章を書いたこともあるのですよ。運転手つきのロールスでクラブに乗りつけるものですから、興味をもったレコード会社の人に頼まれたのです。
チャーリー・パーカーは、1939年にニューヨークに出てきましたが、その同じ頃に、ハーレムに「ミントンズ・プレイス」というクラブがオープンしました。この店にはハウス・バンドが常駐していて、あとは飛び入り自由という、ジャム・セッションを売りにしていました。他のクラブとのちがいを、そうしてだしたのです。
その専属バンドのドラマーが、モダン・ドラミングの祖ともいわれる、ケニー・クラークで、ピアニストはセロニアス・モンクでした。まだ名が知られていない二人でしたが、斬新な演奏が評判を呼んで、スウィングにあきあきしていたミュージシャンたちがこぞって「ミントンズ」に足を運ぶようになったのです。
バードことチャーリー・パーカー、そしてトランペットのディジー・ガレスピーも、常連になりました。1941年12月、日本軍のパール・ハーバー攻撃によって、アメリカ軍も第二次世界大戦に参戦します。クラブの多くは店を閉め、徴兵される若いジャズ・ミュージシャンも後をたちませんでした。残ったミュージシャン達は、ますます「ミントンズ」に集まるようになったそうです。なかには下手なミュージシャンもいましたから、彼らをステージにあがらせまいと、ケニーやセロニアスは、リズムに凝り、フレーズにも今までにない工夫を凝らし、わざと難しくしたんだと後年語っていましたね。こうして、ビ・バップ、もしくはバップと呼ばれる新たなジャズが誕生したのです。
1945年8月、日本が降伏し、第二次世界大戦が終結します。ちょうどその頃、マンハッタンの52丁目に、七軒のジャズ・クラブがオープンしました。その52丁目で、ディジーや、バードを中心にビ・バップが花開いたのです。
バード、チャーリー・パーカーの話をしましょう。
バードの演奏を、ディクスででもいいのですが、聴いたことがおありですか? それは美しく、天上の鳥が歌っているようなのです。力があり、でもそれ以上にやさしく、魂を愛撫されるようでした。彼のメロディの魅惑といったらありません。癒しがあり、すべてのことを許せるきもちになったものです。それを、バードは即興演奏でやってのけるのですよ。
彼は、まごうことのない天才でした。天才らしい、奇妙なところも確かにありました。人からは彼の尊大なふるまいをよく聞かされましたが、わたくしの印象ではそんなことはありませんでした。特にステージでは大変寛大で、誰と共演しても、相手の最上のものを引き出すことができました。
わたくしがビ・バップのミュージシャンにことに惹かれたのには、やはり理由があるのです。その最大の理由は、彼らのソロ、即興演奏のすばらしさです。わたくしには、どうやってあれほどの美しい即興を瞬時に思いつき、演奏できるのか、今でもわかりません。インプロヴィゼーションの、「今」にかける覇気がたとえようもなく好きだったのです。
そして、彼らは、ある種の反逆者でした。現状に満足せず、新しいものを生む。ビ・バップにも認められない時期があり、それでも革新の道を歩みつづけた。どうです? 彼らもレジスタンスの運動家のようでしょう?
バードはよくふらっと、まったくの予告なしに、わたくしと娘が住むホテルの部屋を訪ねてきては、ジャズを聴いたり、娘相手にペギティというゲームに興じていました。チェスも巧かったのです。とにかく頭がよく、物知りでした。リラックスしたタイプの人でしたから、わたくしたちはバードがいることを忘れてしまうこともあったほどです。
バードは、エディ・ヘイウッドの〈ビギン・ザ・ビギン〉をよくかけていました。幾度も、幾度もつかれたように繰り返し聴くのです。それほど好きだったのですね。ほかには、ビリー・ホリデイが歌う〈ユー・アー・マイ・スリル〉も好きでした。亡くなったときに、土曜日にやっていたトミー・ドーシーのテレビ番組を見ていたというのは、本当です。バードはドーシーのファンで、そのことに少しの疑問ももっていませんでした。
人を看とるということは、容易なことではありません。バードのときは、特にひどいゴシップに悩まされました。ええ、チャーリー・パーカーが、1955年3月12日、わたくしたちの部屋で亡くなったのです。
彼は、ボストンで大事な仕事があるといい、その前夜にわたくしたちのところに寄ったのです。変だと思ったのは、すすめたお酒を彼が断ったときです。そんなこと、それまで一度もありませんでしたから。
それから、数分後には喀血したのです。あわてて、わたくしのかかりつけ医でもあるドクター・フレイマンを呼びました。胃潰瘍がひどく、肝硬変もすすんでいるようだから、すぐ病院に行くようにという診断でした。実際、バードは何年も前から、いつ死んでもおかしくない身体だとお医者さまからいわれたのです。
「お酒はやるのですか」とドクターに聞かれ、バードは「たまに、食前酒のシェリーをいただくことはあります」と、ウィンクをしながら答えていました。わたくしたちがいくら説得しても、彼は絶対に病院には行かないと、かたくな拒みました。ですから、しかたなく、わたくしと娘で夜通し看病したのです。アイス・ウォーターを欲しがりつづけて、いくら飲んでも、喉の渇きがおさまらないようでした。
ドクターは一日三回、往診してくださり、最初の喀血から三日後には、バードはかなりよくなったのです。発作が起きていないときは機嫌もよく、ドクターに自分の演奏を聴かせるのだと、ウィズ・ストリングス・アルバムから〈ジャスト・フレンズ〉と〈エイプリル・イン・パリ〉を選曲しました。ドクターが感じいり、賞賛するのを、それは喜び、おもしろがっていましたね。それが土曜日の午後7時半ころでした。
そして枕をクッションにして、トミー・ドーシーの番組を見ていたのです。ジャグラーが放り投げるレンガを、わざと取り落としたとき、わたしたち三人は声をあげて笑いました。バードもお腹をかかえて笑っていたのですが、そのうちむせだして。ドクターに電話してから、娘がそばについていたバードの元に戻ると、首をうなだれているではありませんか。まさかと、手をとると、既に脈がありませんでした。
バードが死んだ。信じたくないことでした。深夜1時に、バードは検死のために病院に運ばれていきました。わたくしは、彼の奥さんであるチャンを探しました。ラジオか新聞で知るようなことがあっては、あまりにお気の毒だと思ったからです。それが奇妙なことに、誰も彼女の引っ越し先を知らないのです。わたくしは「オープン・ドア」というクラブにも行って、チャンを探しました。テディ・ウィルソンの弁護士がチャンのお母様の住所を知っていたので、やっとチャンと連絡がとれました。すでに、月曜日になっていました。
「バードの死体を、ベルヴュー病院に運ばせ、そこで48時間、身元不明の死体として保管させた」のがこのわたくしだと、書き立てた新聞もありました。わたくしの部屋で書かれた死亡証明書には、チャーリー (ヤードバード)・パーカーと、ちゃんと書かれていましたよ。
ニューヨーク・タイムズは、さすがに流言は書きませんでしたが、それでもバードの年齢を53歳くらいだろうと、警察発表どおりに書いていました。実際は、35歳でした。ゴシップ紙は、「漆黒の瞳をもった上流社会の妖婦に目がくらみ、錯乱したヤードバードは、魔女ににらまれ地に落ちた雀同然だった」と書き立てました。ニューヨーク・ジャーナル・アメリカンの見出しは「バップのキング、パーカー裸の死」でした。
わたくしは、一切の言い訳をしませんでした。やましいところが、何らなかったからです。身元不明であったはずが、ないじゃないですか。裸だったなんて、ありえないことです。ドクター・フレイマンは心臓麻痺と肝硬変と死亡報告書に書き、主任検死官のミルトン・ハルバーンは、解剖の結果、死因は肺葉炎だったといったそうです。そういった話は、もうたくさんなのです。
わたくしは、大切な友人を亡くしたうえ、嘘の報道に翻弄され、疲労困憊しました。でも、ジャズへの想いが消えることはありませんでした。
セロニアス・モンクとは、もっと永いつきあいでした。彼に初めて会ったのは、パリで開催された「サロン・ド・ジャズ1954」のときだったと思います。ピアニストで、作曲家、アレンジャーのメアリー・ルー・ウィリアムスが紹介してくれたと、記憶しています。不思議なピアノを弾く人だ、この人の頭のなかはどうなっているのだろうという好奇心を、モンクにもちました。
セロニアスは、他のバッパー達のように瞬間的な即興に賭けるタイプではありませんでしたが、独創的なアイデアとコンセプトをもち、ハーモニーやリズムにも独特の感覚をもっていました。だから“バップの高僧”と呼ばれたのでしょうね。トレードマークだった帽子のせいだけではありません。
彼は、1920年10月10日、ノースカロライナ州で生まれ、ごく小さなときに家族でニューヨークに出てきたそうです。当時のジャズ・ミュージシャンは皆さん、苦労していますからね。子供の頃の話はしたがらないものでしたが、セロニアスは、14歳の頃にアポロ劇場の素人コンテストに出て優勝した、次に出たときも、また優勝した。いつも優勝するものだから、しまいには出場を断られたと、そのことだけはよく話していました。デューク・エリントンやジェームス・P・ジョンソン、ファッツ・ウォーラーが好きだったそうですよ。「ミントンズ・プレイス」のピアニストになったのが20歳のときのことで、それまではあらゆる仕事をしたといっていました。
1946年には、ディジー・ガレスピーが結成した最初のビッグバンドのピアニストにもなっていますね。でも、その頃は新婚のネリー夫人の肩に生活がかかっていたと、これは夫人から聞きました。そう、そう、1951年にはバド・パウエルの車に同乗していて、バドの車からヘロインがでてきたことから、罪をかぶり、60日間も刑務所に入れられたうえ、キャバレー・カードを没収されたそうです。ええ、バド・パウエルは、セロニアスに罪をかぶせられたといっているようですね。ことの真偽はわかりませんが、キャバレー・カードに関してはわたくしも働きかけて、1957年にやっと再交付されたのです。彼はその間も、プレスティッジ・レーベルにすばらしい作品をレコーディングしていますが、キャバレー・カードがなくてはライヴで演奏できませんからね、残念すぎますもの。
わたくしたち二人が、マリファナ所持でつかまった件ですか? そんなこともありましたね。
その頃のレコーディングのなかでは、マイルス・デイヴィスとスタジオに入った『マイルス・デイヴィス&モダン・ジャズ・ジャイアンツ』が好きですね。それに、パリで出逢ったとき、スタジオで録音したソロの『ソロ・オン・ヴォーグ』もすばらしくて、思い出に残っています。
1955年にリヴァーサイドと契約してからの作品は、どれも秀逸です。憧れのエリントン・ミュージックに挑んだ『プレイズ・デューク・エリントン』、彼の世界が完璧に音楽化された『ブリリアント・コーナーズ』、厳格なソロの美しさがあふれた『セロニアス・ヒムセルフ』。まだまだあります。1957年に「ファイヴ・スポット」にジョン・コルトレーンと出演したときは、スリルがあって文字どおり震えたものです。
1960年代も活躍したのですが、1963年12月、リンカーン・センターでビッグバンドとカルテットで開いたコンサートは、大成功でした。
その前ですね、初めての日本公演があったとき、わたくしも彼について日本に行ったのです。ステージの袖で演奏を聴いていましたが、日本の観客が非常に熱心で、水を打ったように静かで、ジャズへのリスペクトが感じられて、そのことにも感銘を受けました。ジャズは、どうも本国でより、よその国でのほうが正当に評価されるようです。
1970年代には、セロニアスは度々健康を害していましたから、思うように活動できなかったのですが、二年ぶりに1975年にニューポート・ジャズ・フェスティヴァルのステージに立ったことや、1976年のカーネギー・ホール・コンサートは今も忘れられません。カーネギー・ホールでは、息子さんのセロニアス・モンク,Jr.もドラムスで参加して、熱狂的な観客に迎えられたのです。
新作への期待の声も高まりましたが、レコーディング・スタジオに入ることはなく、1982年、脳溢血で倒れ、2月17日にニュージャージーの病院で亡くなりました。その頃には、ご夫妻でわたくしのニュージャージーの家で、引退生活を送っていました。享年はまだ61でしたから、残念なことでした。でも、セロニアスの場合は、できることはさせもらったという気持ちがありましたから、後悔は残りませんでした。一緒に泣けるネリー夫人がいたことも、慰めでした。
ジャズを愛することは、いつも愛するミュージシャン達の死と隣りあわせでした。でも、きっとそれはジャズに限ったことではないのでしょう。光があれば影がある。今は、わたくしの負った濃い影に、その演奏で明かりを灯してくれた、ジャズ・ミュージシャン達に感謝するだけです。
パノニカ・ド・ケーニグスウォーター男爵夫人は、1988年に74歳で亡くなりました。五人の子供たち、二人の孫と、四人のひ孫があり、2006年10月にはジャズ・ミュージシャンとその三つの願いと題された本、「Les musicians de jazz et leurs trios voeux」がフランスで出版されました。これは1961年から1966年の間に、ニカ夫人が 300人のミュージシャンに「もし三つの願いが叶うなら、何を願いますか」と訊ねたインタビューと、ポラロイド・カメラでとった写真がまとめられたものです。編集にあたったのは、孫のひとり、ナディーン・ド・ケーニグスウォーターでした。

チャーリー・パーカー with ストリングス
『エイプリル・イン・パリ』
ユニバーサル ミュージック
UCCU-5033
2003年4月23日発売
| ※ | 権利者の許可を得ずに、複製することを禁じます。 |

セロニアス・モンク

セロニアス・モンク
『アローン・イン・サンフランシスコ 』
ユニバーサル ミュージック
UCCO-5059
2007年09月19日発売
| ※ | 権利者の許可を得ずに、複製することを禁じます。 |