よく、人にいわれます。「あなたのような幸せなジャズ・シンガーは、いないわね。名声、経済的な豊かさ、長寿と、幸せを独り占めしているみたい」。
言い返さないことにしているんです。暗に、ビリー・ホリデイや前の世代のシンガーたちがもっと苦労したのに、エラは楽をしてと、非難しているのがわかっても。そう思ってもらって、悪いことはないし、事実ではないにしても、わたしにはどこかハッピーなイメージがあるらしい。たぶん、わたしの歌から受ける印象と、混同するのでしょう。
わたしの糖尿病を、歌から感じたいのですか? よろしければ、合併症も、ありますよ。でも、お客さまは、そんなこと知りたいとは思っていませんよ。日頃の憂さを忘れにコンサートにいらっしゃるってことを、わたしはよく知っているんです。
わたしにだって、苦労がなかったわけじゃない。ストリート・チルドレンのひとりだったんですから。ええ、ホームレスでした。あの頃のわたしったら、世をはかなんで、どうして生まれてきたんだろうと、天につばする毎日でした。それが、ある日、偶然にチャンスがやってきた。そのとき、思ったんです。人には叶う望みと、叶わない望みがある。それなら、叶う望みに賭けようと。人が喜んでくださるなら、歌うことがわたしの”第一志望”じゃなくても、いいじゃないですか。かえって、いいこともあるんです。思い入れが強くない分、冷静に歌う自分をみることができました。努力しましたね。当然のことです。歌でお金をいただくのですから。
わたしは、ひどいことがあっても、文句をいいませんでした。元来、自分の意見をいうのが下手なのです。ツアーにでると、女性シンガーは差別には特に敏感になりますが、わたしの場合は、マネージャーのノーマン・グランツが黒人に対する差別があると、きっぱり公演を断っていましたから、ホテルでもレストランでも、それほどイヤな思いをしたことがありません。でも、《ジャズ・アット・・ザ・フィルハーモニック》のツアーでダラスにいたとき、急に警官が楽屋にのりこんできて、ちょうどダイスをやっていたディジー・ガレスピーとイリノイ・ジャケーを逮捕し、わたしたちミュージシャンを全員連行した。そんなことをしておいて、留置所でわたしたちにサインをせがむんですよ。ひどいメンタリティです。
でも、そんなことが起きたときも、あのホームレスの日々を思い出せば、「こんなこと何でもない」と思えたのです。道端のゴミ同然だったあの頃に戻りたくないから、だいたいのことには我慢ができる。
ふつう、シンガーたちは自己主張が強いですから、わたしにはエゴがないようにみえたのでしょう。ベニー・カーターが「おまえさんはエゴがない。無心で歌に臨んでいるところがいい」って言ってくれました。反応がスローなもので、わたしが怒ろうとすると、もう相手が目の前にはいないというのが、本当のところです。
ライヴが終わっても、わたしはひとり早く部屋に戻りました。ミュージシャン同士の大騒ぎも苦手でしたし、パーティもできるかぎり遠慮しました。大勢の人と話すと、あとであんなことを言わなければよかった、ああ言えばよかったと、悩んでしまうもので。
パーティなどで、知らない人から、よく「成功の秘訣は何ですか」と聞かれました。黒人女性なのに、ビバリー・ヒルズに住むほどの成功という意味で、訊ねられているようなのですけれどね。わたしは「幸運だっただけです」と答えます。わたしがどれほどステージに立つのが好きか、実は仕事中毒気味でしたが、まさか、ワーカホリックが成功の秘訣ですとは言えませんものね。
でも、今もう一度考えてみると、不幸の数を数えずに、自分の幸福を先に数えるということでしょうか。どんなに大きな問題が起こっても、問題をみずに、ほかにあるはずの幸運な要素をみる。足が不自由だったら、健康な手に感謝する。朝起きたら、太陽に、小鳥のさえずりに、空気にも感謝したい。感謝したいものが、身のまわりにあふれているじゃありませんか。数えているうちに、自然に笑みがこぼれてきませんか?
わたしは、感謝しているのです。わたしの人生でのすべての出逢いに。好きだった人も、嫌いだった人も、そのときに必要な教師でした。友情に。わたしは、友人に礼節をもって接し、大切にしてきました。今まで歌ってこられて、ありがたかった。多くの人のお世話になりました。すばらしい歌をかいた、作詞家、作曲家に。ミュージシャンたちにも感謝しています。そして、誰よりも、わたしの歌を聴き、好いてくださったお客さま方に。
わたしはステージのうえでだけ、自由でいられたのです。いつもの自信のない自分が消えて、おデブのわたしが、羽根がはえたように身軽になれたのは、お客さまの拍手があったからです。
わたしは歌い終わると、しょっちゅう「サンキュー」と言いました。そんなに何度も言わなくていいよと、アドヴァイスしてくれた先輩もいましたが、直りませんでしたね。だって、ありがたかったのです。うれしかったのです。
この世でわたしが最も愛したもの、それはお客さまからの拍手でした。
エラ・フィッツジェラルドは、ビリー・ホリデイやサラ・ヴォーンと並んで、ビッグバンドが盛んだったスウィング時代に登場した、最も重要なジャズ・シンガーのひとりです。エラのヴォーカル・スタイルは、少女のような純粋さを声と、その声を使いこなす優れた技術によって作られていきました。音楽活動をはじめた頃は、荒削りなシンガーでしたが、1940年代になって声域の幅をひろげ、インプロヴィゼーション(即興)の能力を伸ばすためにさまざまな努力をし、自身のスタイルを築きあげたのです。
日本では“女性モダン・ジャズ・ヴォーカル御三家”として、彼女と、サラ・ヴォーン、カーメン・マクレエがよく並び称されます。でも、現在のグローヴァル・スタンダードに照らしあわせると、国際的な認知度では、エラが群をぬいています。後進におよぼした影響という点では、エラとサラが同列一位でしょうか。エラとサラは、正反対の気質をもっていました。たとえばビリー・ホリデイは「偉そうな」サラのことを生涯嫌い、「おとなしい」エラを (うらやむことなく)可愛がりました。
“ファースト・レディ・オブ・ソング”と呼ばれたエラ・フィッツジェラルドは、60余年にわたる音楽活動で、200枚以上のリーダー作をレコーディングしました。グラミー賞受賞は、驚異の13回。アメリカが誇るクラシックの殿堂、カーネギー・ホールへの出演回数も26回を数えるのです。
では、これから、そのエラの人生をたどってみたいと思います。
エラ・ジェーン・フィッツジェラルドは、ヴァージニア州ニューポート・ニューズで、1917年4月25日に生まれました。母親のテンパランス(テンピー)は洗濯女をしていましたが、内縁関係にあったエラの父親のウィリアムは、娘が3歳になる頃には、どこかに消えていました。ですから、エラには父親の記憶がありません。
やがてエラは、毋テンピーと、毋親の恋人、ジョッセフ・デ・シルヴァとともに、ニューヨーク州ヨンカースに移り、学校に通いはじめました。1923年に妹、フランシスが生まれてからは、エラはジョセフを、継父としてみるようになります。
エラが好きだったのは、ダンス。小学3年生の頃にはじめ、それこそ三度のご飯よりダンスが好きという少女時代をおくりました。歌も歌いましたが、ダンスの魅力に比べれば、とるに足りないものでした。
継父ジョセフは、排水溝を掘る仕事をし、たまにおかかえ運転手をしていました。毋テンピーは、コイン・ランドリーで働き、たまにケータリングの仕事もしていました。エラも、近所でギャンブルをやっている男たちの使い走りをしたり、テーブルの下に落ちているコインを家にもって帰り、家計の足しにしていました。
子供の頃の友人によると、エラはのんびりした性格だったそうですが、その頃から有名になりたいと言っていたそうです。友達が大勢いて、どちらかというとオテンバ。スポーツが得意で、近所の男の子たちの草野球に加わることもしばしばありました。もちろん、ダンスと歌うことも、彼女たちの大事な遊びでした。ある日、エラは友人たちとハーレムにくりだし、アポロ劇場に行ったのです。“大イベント”でした。そのとき観たさまざまな演し物の楽しさは、彼女にいつか舞台に立ちたいと思わせるのに充分でした。もちろん、ダンサーとして。
1932年、毋テンピーが突然亡くなりました。交通事故にあったのです。泣き叫んでも、揺すっても、母親は生き返りませんでした。エラにとっては、ひとりでは抱えきれない悲しみでした。ところが、やはり悲しみにくれた継父ジョセフは、エラを慰めるどころか、自暴自棄な行動をとるようになり、エラに八つ当たりするようになりました。放っておけないと、エラを引き取ったのは母方の叔母、ヴァージニアでした。
母親の死のショックから立ち直れないでいるエラの元に、ほどなくしてジョセフが心臓発作を起こし、亡くなったという知らせが届きます。今度は悲しいというより、呆然とするエラでした。叔母の家に、エラだけではなく、残された妹フランシスもやっかいになることになりました。
エラは激変した家庭環境になじめず、日ごとにふさぎはじめました。そればかりか、おっとりした少女だったエラが、非行に走るようになります。落第したため、ますます学校にも行かなくなり、警察沙汰を起こし、少年院に送られるのです。ギャングの仲間に入り、見張り番をしていたところを捕まったのでした。
少年院は、子供を守り更生をうながす場であるべきなのに、そこがそれまでのどの環境よりエラを苦しめました。ケアしてくれるはずの職員には、ぶたれる。仲間の間でも始終喧嘩。彼女はもうどうなってもいいと、少年院を脱走します。
彼女はまだ15歳でした。希望もなく、食べるものもなく、頼る人もなく、エラはストリート・チルドレンのひとりになっていました。ホームレスなのですから、食べ物も残飯、寝る場所があるわけでもありません。打ちひしがれ、鬱状態でした。
1934年、エラがアポロ劇場の『週間素人勝ち抜き戦』にダンスで残り、アマチュア・ナイトに出場できることになりました。まだホームレスなのです。もちろん、賞金目当てでした。人は、エラを恥ずかしがり屋だと言います。でも、実際はシャイというより、自信がないので、引っ込み思案だったのです。衣装もなく、自分の外観にも自信をもてない彼女ではありましたが、ダンスで身を立てたいという夢だけは捨てられずにいたのです。
いざステージという段になって、エラは慌てました。アマチュアたちの前に出場した、メインの出演者《エドワード・シスターズ》の踊りをみて、自分との差に愕然としました。ステージに押し出され、立ちつくすエラに、観客は容赦なくブーイングの嵐をあびせました。彼女は後ろを振り向くと、バンドに告げました。
「急にすみません、わたし歌うことにします」
曲は、毋テンピーがすきだった、ポピュラー・シンガーであるコニー・ボスウェルの〈ジュディ〉にしました。まちがえようがないくらい、毋と聴いたからです。エラが歌いだすと、騒いでいた観客が静まりかえりました。そして歌い終わると、会場から大きな拍手が起こりました。アンコールにこたえ、エラはボスウェル・シスターズの〈ジ・オブジェクト・オブ・マイ・アフェクション〉を歌いました。またもや拍手が鳴りやまず、エラは優勝したのです。
ステージから降りれば、自信も愛してくれる人もないエラでしたが、舞台の上で歌っていると力がわき、自分でも驚くほどリラックスできました。エラが、オフィシャル・サイト上で語っています。
「そのうえ、ステージでは、わたしを受け入れてくれる観客からの愛を感じることができたのです。わたしはそのとき、決めました。生涯歌っていこうって」
その日、アポロ劇場のバンドに、すぐれたアルト・サックス奏者で作・編曲家のベニー・カーターがいました。ベニーはサラの歌に心を動かされ「この娘はものになる」と、それ以降、多くの人に彼女を引きあわせました。ベニー・カーターとエラは生涯にわたる友情をむすび、機会あるごとに共演するようになるのです。
そんなベニーのサポートもあり、エラは片端からさまざまなコンテストに出場しては、優勝を重ねていきます。そこでもらう賞金で、生活を支えていました。1935年、『ハーレム・オペラ・ハウス』のコンテストにも優勝。賞品は、同店に一週間出演できるというものでした。プロの歌手、エラ・フィッツジェラルド誕生の瞬間でした。
出演中に、ビッグバンド・リーダーでドラマーでもあるチック・ウェブに見込まれます。チック・ウェブ楽団には、既にチャーリー・リントンという男性シンガーがいましたが、チックは彼女に「エール大学のダンス・パーティで演奏するから、そこでテストをしてみよう」ともちかけました。
エール大の学生の反応は、知性が邪魔をするのか、通常は批判的なことで有名ですが、その夜はアポロ劇場かと見まがうような大喝采。チックはさっそくエラを、チック・ウェブ楽団の専属シンガーとしてやといました。週に12ドル50セントで、ツアーに同行する契約。定収入と、仲間ができたことに、エラは心から感謝しました。
1936年、エラが初レコーディングに臨みました。デッカ・レーベルに〈ラヴ・アンド・キッセズ〉を吹きこんだのです。反響は、ありませんでした。チック・ウェブ楽団は、当時一番人気のハーレムの『サヴォイ・ボールルーム』にも出演し、仕事は毎日ありました。
チック・ウェブは彼女にヴォーカル・テクニックを教え、彼女も師とも父親代わりとも慕い、彼の指導ともちまえの努力で、歌唱力をあげていきました。ビッグバンド全盛のスウィング時代にも、そろそろかげりがみえていました。エラは、バンドのホーン奏者のように歌うことを、心掛けるようになります。その頃レコーディングした〈ユー・ハヴ・トゥ・スウィング・イット〉で、彼女ははじめてスキャットを録音しました。歌詞ナシで歌うスキャットは、終生彼女のトレードマークになるのですが、お手本は、少女時代から好きだったルイ・アームストロングでした。
1938年、エラ21歳のとき、〈ア・ティスケット・タスケット〉を吹きこみました。1900年頃に書かれた詩を、彼女流に取りいれ歌詞を書き歌ったのですが、この曲が全米ナンバー1になり、総計100万枚をセールスするビッグ・ヒットになりました。ポピュラー・チャートに17週君臨し、気がつくと、エラ・フィッツジェラルドはスターになっていました。
翌1939年に、チック・ウェブが亡くなります。エラにとって、いつも愛する人の死は、突然やってきました。楽団のマネージャーは、人気のあるエラをリーダーにすえました。そして一年後、エラは『ダウンビート』『メトロノーム』両誌の読者人気投票で第一位に選出されました。
エラはこの頃、結婚します。家庭がほしかったこともあるでしょうし、身を守りたいと思わせるアプローチも増えていたのです。ただ、相手がよくなかった。エラに永く言い寄って想いをとげ、彼女を妻にした港湾労働者のベニー・コーネギーには、エラに隠していた服役経験があり、本職はドラッグ・ディーラー兼ギャンブラーでした。トラブルが続き、エラは2年で離婚を選択します。
1942年、ビッグバンドが解散すると、エラは単独で音楽活動を開始し、当時人気があったさまざまなミュージシャンたちとツアーにでます。彼女は、新たなジャズの潮流であるビ・バップにも興味をもち、自身の歌に取り入れようと研究をはじめます。その頃には、エラのスキャットはライヴでは評判になっていました。
1945年にレコーディングした〈フライング・ホーム〉で、エラはライオネル・ハンプトンのレコードで演奏された、サックス奏者、イリノイ・ジャケーの即興演奏をそのままスキャットで歌ってみせ、高い評価をえます。ディジー・ガレスピーとの共演経験も、ためになりました。ビ・バップの創始者との共演が、エラのヴォーカル・テクニックを進化させたのです。
それまでも、歌詞を用いない歌唱法であるスキャットをする人はいました。ルイ・アームストロングがスキャットでレコーディングした最初のシンガーですが、スキャッティングは、古くからニューオリンズにあったものです。ですが、それを世に出したのがルイ・アームストロングで、そこにビ・バップの要素も取り入れ完成させたのが、エラ・フィッツジェラルドだったのです。ちなみに先にも触れたように、ルイは、エラの少女時代からのアイドルでした。
1946年にディジー・ガレスピーとツアーしたとき、エラはグループのベーシストであるレイ・ブラウンと恋に落ち、結婚します。そして、妹の息子と養子縁組みをむすび、レイ・ブラウン・ジュニアと名づけます。
その頃、レイ・ブラウンは、興行主のノーマン・グランツと頻繁に仕事をしていました。グランツは《ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック》(以下:JATP)というオール・スター・グループを組み、国内外をツアーしていました。グランツは、エラの歌を聴き「国際的に通用するスター性がある」と見抜き、さっそくツアーの一員として招きいれました。JATPツアーでエラは、テナー・サックス奏者のレスター・ヤングや、トランぺッターのロイ・エルドリッジ、ピアニストのオスカー・ピーターソン、そして夫でもあるベーシストのレイ・ブラウンといった名だたるミュージシャンと共演を重ねました。忙しさのあまり、家庭生活はすれちがいの連続で、レイとの結婚は4年で終止符がうたれますが、二人はその後も共演を続けました。
JATPの興行主であるノーマン・グランツは、次第にエラの音楽活動への影響力を増し、1953年には彼女のマネージャーになりました。そしてその3年後、グランツはエラのレコード・プロデューサーもつとめるようになり、グランツが設立したレコード会社であるヴァーヴ・レーベルでレコーディングを開始します。
まず制作したのが、2枚組のアルバム『コール・ポーター・ソングブック』でした。エラはそれまで在籍していたデッカ・レーベルに、既に1950年、ピアノとのデュオでガーシュウィン楽曲集を録音していましたが、グランツは『ソングブック』の概念をひろげようと、大編成のオーケストラを使いました。エラは、10年近くの間に、最終的にデューク・エリントン、アーヴィング・バーリンなど6人の作曲家の『ソングブック』を世に出しました。
シリーズのなかでは、『デューク・エリントン・ソングブック』は、ちょっと特別かもしれません。何せ、デューク自身をふくむエリントン楽団が演奏をつとめているのですから。本人が演奏参加した『ソングブック』は、前代未聞のことでした。またデュークが、楽団の専属作・編曲家であるビリー・ストレイホーンとの共作で、2曲、エラのために書き下ろしたことも特筆に値します。
ソングブック・シリーズは、資料としては大変参考になります。今では信じ難い話ですが、日本で“スタンダード・ナンバー”と呼ばれているアメリカン・ソングブックが作曲家ごとに作られたのは、このシリーズがはじめてだったのです。それが作詞・作曲家への評価、認知度をあげたことは確かです。エラの公式サイトで読んだ話ですが、アイラ・ガーシュウィンが言ったそうです。
「エラ・フィッツジェラルドが歌ってくれるまで、わたしたちの作った歌が、これほどいい歌だとは知りませんでした」
後年、キャピトル・レーベルが、同じソングブック・シリーズをフランク・シナトラで制作したいと考え、シナトラに打診すると、エラへの尊敬から、似た企画でのレコーディングは控えたいと断ったといいます。
しかし一方、シリーズ諸作への評価は意見が分かれるところです。それ用のオーケストラをバックに歌うエラは、ストーリーを物語る力量や幅広い声域と澄んだ声をもってはいますが、端正すぎて、ジャズらしい生き生きとしたエネルギーに欠けるのです。メンバーはオールスター級なのに、アレンジに無理がある曲も多々ありました。グランツの過剰なコントロールが、エラをかごの鳥にしたというのは、いいすぎでしょうか。いくら黄金の声をもっていても、空を舞い、枝に羽根を休め、そこで無心にさえずってこその鳥です。
ジャズ・ファンには、わたくし同様、この歴史的6作に、多少の疑問をもっている方も多いかと思いますが、入門者やほかのジャンルの音楽ファンにとっては、ソングブック・シリーズは非常に聴きやすく、高尚でもあり、構成もしっかりしていたため、大いに評価されました。
そしてその評判とグランツの尽力が、エラ・フィッツジェラルドをさらなる高みに押しあげました。アメリカ国内やヨーロッパで、クラシックの大家が出演するホールや、それまでジャズ・ミュージシャンが出演したことのない、有名クラブに出演するようになるのです。
グランツに感謝すべきことも、多々あります。彼は、エラのコンサートをライヴ録音するのも忘れなかったことです。ことに有名で、エキサイティングな1枚が『エラ・イン・ベルリン』。1960年、当時の西ドイツ、ベルリンで行われたライヴの模様をおさめたアルバムです。そこで歌われた〈ハウ・ハイ・ザ・ムーン〉や〈マック・ザ・ナイフ〉での、スピード感とステージに立つ喜びが伝わってくる表現、スキャットの見事さはどうでしょう。近年アメリカの音楽大学で「このアルバムでエラスキャットしたとおりに、管楽器で演奏してみよう」という講義があるほどなのです。
即興は、歌詞にまで及んでいますが、彼女の勉強家ぶりを知るにつけ、歌詞だけは前から用意していたのだと、わたくしは思います。即興歌詞/替え歌の事前準備が、ジャズの価値を低くめるとは思いません。エラには、大いなるサーヴィス精神があった。彼女は、観客の拍手につつまれているときが、ほかのどんな瞬間より幸せだった。ですから、歌詞をその日の観客にあわせて変えるくらいの準備はしていたはずです。シングル・カットされた〈マック・ザ・ナイフ〉は、トップ10入りを果たしました。
ノーマン・グランツのもうひとつの功績は、エラとルイ・アームストロングを共演させ、3作をレコーディングしたことにあります。その3作とは『エラ・アンド・ルイ』『エラ・アンド・ルイ、アゲイン』『ポーギーとベス』。ルイ・アームストロングは、常にデュエット相手のベストを引き出すマジックをもっていましたが、エラなら相手に不足はありません。この諸作でのエラはリラックスし、少女時代からのアイドルとの共演の喜びに、少しはしゃいで歌っています。スウィングと、音楽の楽しさがあふれかえっているのです。
2004年、ヴァーヴ・レーベルが60周年を記念して、60タイトルをリリースした (正式な設立は1956年だったが) とき、日本では独自に名作の誉れ高い10作が、1-bit/DSDリマスタリングされ、SACDという、今までになく音質のいいCDになりました。
SACDになった『エラ・アンド・ルイ』は、二人のシンガーの立ち位置まで知らせてきました。二人が一本のマイクを分けあって歌っていることもわかるのですが、永年のアイドルとの共演に、元来謙虚なエラが、後ろに控え気味に立っています。ルイのパートが終わると、たぶん、そっとルイがエラの背中を押したのでしょう。マイクへの距離を縮めながら、歌いはじめるエラの歌声から喜びが伝わってきます。エラの高音に、ルイの低音のひろがリ。バックでピアノを弾くオスカー・ピーターソンの繊細な演奏も、心を打つものです。このアルバムでの二人の歌唱のすばらしさは、ルイのようなジャズの支柱がそこにいると、状況やプロデューサーに、音楽/ジャズが左右されないことの証左だと思います。 ルイ・アームストロングとの共演は、幸せな経験として、永くエラの心に残りました。
『ソングブック』の好評がエラをさらなるスターダムにあげたと、先ほど書きましたが、ほかにもうひとつ、きっかけがありました。その仕掛人は、マリリン・モンローでした。マリリンが、エラの大ファンだったことを知る人は、今はもうあまりいません。
1950年代半ばになっても、アフリカン・アメリカンの音楽家を出演させる必要はないと感じている“格式あるクラブやコンサート・ホール”は山ほどありました。そのひとつが、当時人気を集めていたクラブ『モカンボ』エラは、マリリン・モンローのサポートで、同クラブに出演した最初のアフリカン・アメリカンになりました。このエピソードは、エラ自身から話してもらうことにしましょう(エラ公式サイトより引用)。
「わたしは、マリリン・モンローがしてくれたことに、感謝してもしきれない想いでいます。マリリンが、わたしを『モカンボ』に出演させるよう、働きかけてくれたのです。自分でオーナーに電話して、言ったのです。『エラを出演させるべきだわ。もし、エラを出してくれたら、わたしは一番前のテーブルを借り切って、毎晩通いましょう。約束します』。スーパー・スターだったマリリンの頼みを断れる人は、いませんでした。わたしはすぐに出演を依頼されました。そして約束どおり、マリリンは毎夜友人たちとフロント・テーブルに座り、歌を聴いてくれたのです。すごかったですよ。マリリンの姿をカメラにおさめようとメディアが押しよせ、記事が多くの新聞や雑誌にのりました。この『モカンボ』出演が契機となって、それ以降、わたしは小さなクラブをまわる必要がなくなったのです。マリリンは公正な人道主義者で、時代より先を歩いていました。彼女自身には、自覚していなかったかもしれませんが」
エラは、1950年代からテレビにも、出演しました。ビング・クロスビー、ダイナ・ショア、フランク・シナトラ、エド・サリヴァン、ナット・キング・コール、アンディ・ウィリアムス、ディーン・マーティンといった個人のショウをはじめ、『トゥナイト・ショウ』にも呼ばれています。彼女はどのホスト、関係者、視聴者からも好意的に受けとめられました。それにしても、当時はシンガーがホストをつとめるテレビ音楽番組が多かったことに驚かされます。 テレビ・コマーシャルにも起用され、ケンタッキー・フライド・チキン、アメリカン・エクスプレスのコマーシャル・ソングを歌い、顔をだしています。
テレビ界がエラを好んで起用した反面、映画界はほかのアフリカン・アメリカンの出演者同様、彼女にも好意的ではありませんでした。1942年に『ライゼム・カウボーイ』という映画のなかで歌いましたが、それはほんの端役にしかすぎませんでした。
次の機会は、ノーマン・グランツの精力的な働きかけで実現した、ジャック・ウェブ監督の『ピート・ケリーズ・ブルーズ』という1955年の映画でした。歌手のペギー・リーもキャスティングされた作品で、シンガー役をもらったエラは小躍りして喜びましたが、やはり端役の域をでませんでした。ニューヨーク・タイムズ紙は、同年8月の映画評で「エラ・フィッツジェラルドの出番は、本編95分のなかの、たった5分だった。なんと冗長なプロローグか。すばらしい彼女に、数行の科白しか与えられないとは遺憾。それでも彼女はその存在感と歌で、深い印象を残した」と記しています。
1958年には『セント・ルイス・ブルース』、1960年には『レット・ノー・マン・ライト・マイ・エピタフ』に出演したものの、どれも端役で、エラといえども映画界で成功をおさめることができませんでした。ハリウッドでは、人種間の壁は厚かったのです。
1963年、ノーマン・グランツが、3億円でヴァーヴ・レーベルを売却しました。買収側のMGMは、1967年にエラとの契約を打ち切ります。そのため、それ以降の5年間は、エラはアトランティック、キャピトルなど、いくつかのレーベルでレコーディングを行いました。クリスマス・アルバムや、カントリー・アンド・ウェスタン調のものなど、エラの特質をいかした作品が作られることはありませんでした。
しかし、ここでまたしてもノーマン・グランツが、助けに登場します。グランツが、自分が好きなパブロ・ピカソの名前を借りて名づけたレーベル、パブロに、エラを呼びよせたのです。1972年の『ジャズ・アット・ザ・サンタモニカ・シヴィック’72』は、レコード会社も驚くヒットになりました。カウント・ベイシー楽団との共演が、再びエラにスポットライトをあてたのです。パブロには計20作を録音しましたが、ギターのジョー・パスとのデュオ作、あるいはピアノのトミー・フラナガンとの名コンビによるレコーディングを残しています。エラは晩年まで、レコーディングにも意欲的であり続けました。
ツアーに、目を転じてみましょう。エラ・フィッツジェラルドは、有名になっても仕事も数を減らすことはなく、世界をツアーし、あらゆるコンサート・ホールの舞台に立ちました。1950年代には、一年のうち、40週から45週も、ツアーにでていたのです。v
1960年代以降はさすがにペースダウンしていますが、1996年に亡くなるほんの3年前まで、観客の前に姿をみせていたのです。エラにはいつ引退しても困らないほどの財産がありましたが、観客の拍手を何より好んだ彼女からコンサートをとりあげることは、休止符ではなく、終止符を意味しました。
1974年には、ニューヨークでフランク・シナトラとともに、カウント・ベイシー楽団をバックに2週間にわたるコンサートに出演しました。ときには、健康上の理由から活動を中止せざるを得ないこともありましたが、異なるサイドメンと、ステージに立ち続けたのです。
こんなこともありました。1978年の夏のことですが、2日間のうちに、フランスのプロヴァンス、イギリスのニューキャッスルで公演したあと、アメリカに戻り、ヴァージニア州のウォルフ・トラップでコンサートを行うという、強行スケジュールをこなした記録があります。
1979年に、『ダウンビート誌』選出の《ジャズの殿堂》入りはたしますが、1986年には以前から患っていた糖尿病が深刻化し、冠状動脈にバイパスを通す心臓手術を受けました。「エラ再起不能」「引退か」とメディアは報道しましたが、エラはステージに戻りました。
1987年には、ドナルド・レーガン大統領から《ナショナル・メダル・オブ・アーツ》を授与されました。この賞は、アメリカの芸術分野に貢献をした個人に贈られる賞で、芸術関連ではアメリカ最高の栄誉です。数々の大学から名誉博士号も贈られました。そのなかにはエラがチック・ウェブにテストされた、エール大学もふくまれていました。
80年代の後半、エラが毎夏出演していたニューヨークのJVCジャズ・フェスティヴァルで、わたくしも数年にわたって晩年の彼女を聴くことができました。その頃には合併症のため、視力はうばわれ、両足にも影響がおよび、立つことしかできませんでした。舞台のセンター・マイクまで人に抱きかかえられるようにして連れられてでるのですが、いったん歌いだすと、鬼気迫るその姿とは裏腹に、音楽の楽しみ、ジャズの粋を伝える歌を聴かせたのです。
当然、全盛期の高音域は望めませんでしたし、ビブラートには往年の鈴をころがすような繊細さはなく、歌声がしわがれ、衰えていました。しかし、それでもエラは聴衆を酔わせる歌心をもっていたのです。会場はいつも満員で、それも早くに売り切れました。観客は、エラが登場するだけでスタンディング・オヴェーションで迎えました。エラに会場の様子が見えたとは思いませんが、拍手が客席より高い位置で起きることから、それがスタンディング・オヴェーションだとわかったはずです。
最後のレコーディングは1989年に行われ、エラ・フィッツジェラルドは生涯に 200枚以上のリーダー作をレコーディングしたことになります。
1991年、彼女は最後のカーネギー・ホール公演に出演しました。彼女にとって、このクラシックの殿堂で開く、26回目のコンサートでした。そして最後に観客の前に姿を現したのは、1993年でした。
手術を受けても足の状態が回復することはなく、エラはそれから数年の間、人生ではじめての休息のときをすごしました。ビヴァリー・ヒルズの自宅の庭に椅子をだし、息子のレイ・ジュニアと、孫娘のアリスとすごすことを楽しみに暮らしたのです。ツアーで家を空けがちで、レイ・ジュニアには可愛そうなことをしたと言っていたそうですから、最晩年の家族団らんの日々は、皆にとって必要な時間だったのかもしれません。
「わたしは、この空気を吸っていられるだけでいい。小鳥の鳴き声と、アリスの笑い声を聞ければ、本望なのです」(公式サイトより)
1996年6月15日、エラ・フィッツジェラルドはビヴァリー・ヒルズの自宅で永眠しました。葬儀は遺族の要望で、身内で行われたましたが、彼女の遺体を墓地まで運ぶ車のために、ロスアンゼルス市はハイウェイを通行止めにし、哀悼の意を表しました。ハリウッドの『ウォーク・オブ・フェイム』にあるエラの名前を刻んだ路面は、白い花束で埋まり、車がハリウッド・ボール・シアターの前を通りすぎるとき、レイ・ジュニアには「エラ、ウィ・ウィル・ミス・ユー」と書かれた大断幕がみえました。
カリフォルニア州、イングルウッドにあるイングルウッド・パーク墓地内、サンクチュアリー・オブ・ザ・ベルズという区画にある墓石には、今もファンからの花束が供えられているそうです。
参考書籍
Ella Fitzgerald: A Biography of the First Lady of Jazz
著者 Stuart Nicholson 出版社 Da Capo Press
参照ウェブサイト
http://www.Ellafitzgerald.com/
http://www.answers.com/topic/ella-fitzgerald/

エラ・フィッツジェラルド

エラ・フィッツジェラルド
『ララバイズ・オブ・バードランド』
ユニバーサル インターナショナル
UCCU-5239
2004年06月30日 発売
| ※ | 権利者の許可を得ずに、複製することを禁じます。 |

エラ・フィッツジェラルド
『マック・ザ・ナイフ/エラ イン ベルリン』
ユニバーサル インターナショナル
UCCU-5015
2004年09月01日発売
| ※ | 権利者の許可を得ずに、複製することを禁じます。 |

エラ・フィッツジェラルド