穐吉敏子の音楽的業績を考えるとき、1996年、東京で開かれた彼女の音楽生活五十周年を祝う会の席で、ニュース・キャスターの筑紫哲也氏がしたスピーチを思い出します。氏は「穐吉敏子さんが、三重苦をのりこえて、独自性を貫いた活動をジャズの母国アメリカで続けられたことは、実に偉大だ」と讃えました。その“三重苦”とは、アフリカ系でないこと、アメリカ人ではないこと、女性であることを指していました。
穐吉敏子は、アメリカが生んだ文化であるジャズの中核に日本人として他の誰よりも早く飛び込み、半世紀以上の間、高い評価を得てきました。高い評価といっても、グラミー賞に14回もノミネートされながら、いまだ受賞に至っていない点については、その理由に潜在的な優先順位が感じられ、同じ日本人として残念な思いがあります。しかしそれでも、1999年には、日本人としてはじめて『ジャズの殿堂入り』を果たしました。
穐吉敏子は、グラミー賞選考委員の理解の範疇をこえた音楽家なのかもしれません。彼女は、英国生まれのマリアン・マクパーランド、マサチューセッツ州生まれのバーバラ・キャロルとともに、1950年代の三大女性モダン・ピアニストと呼ばれたそうです。他の二人の音楽がスウィング〜ビ・バップの時代にとどまったのに比し、穐吉の音楽は「グローバルな地平に立ったうえで、自身のアイデンティティを表現する」という“二十一世紀的視線”を時代に先駆けて有し、それにより地平を切り開いてきたといってよいでしょう。
穐吉敏子は、ジャズと日本の文化を融合させた、つまり、グローバルでありながらアイデンティティに根ざした音楽を、特に1970年代に入ってから創作してきたのです。
冒頭の五十周年祝賀会後に、穐吉敏子にインタヴューをし、訊ねました。「どのようなきっかけで、ジャズと日本の文化を融合することを発想されたのですか?」と。「わたくしは、ある時期『ジャズとは自分にとって何なのか』ということだけではなく、『自分はジャズにどう貢献できるのか』を突き詰めて考えました。煩悶の後、わたくしはジャズ・プレイヤーとして音楽に日本の文化を取り入れることを考えはじめたのです。そんな折、尊敬するデューク・エリントンが亡くなったのです。そのとき、彼の黒人としての誇りが、作品に根づいていることに気がついたのです。日本人であることも、ハンディキャップなのではなく、財産なのだと思いいたりました」
筑紫氏がスピーチで話した“三重苦”についてふれると、彼女はもちまえのユーモアで、「若くもないし、ラテン系でもないから五重苦ですね」と笑って、次のように語りました。
「それはそれで、しかたがない。わたくしが日本人で女性であるといった事実は、変えようがないのですから。わたくしは、生きるうえで、シンプルなルールを作りました。変化させたいことで、自分がコントロールできるものは直す。自分がコントロールできないところの問題は、気にしないというものです」
彼女のこの考え方は、わたくしに大きな影響を与えました。実行してみると、しっかりとした自己肯定と自己責任 (自分が被害者であると思いこまない) をもたなければ、そのルールは守れないのでした。
こう語る穐吉敏子が、どういったジャズ人生を歩んできたのか、この章では振り返りたいと思います。
穐吉敏子は、1929年12月12日、四人姉妹の末娘として、旧満州南部(現在の中国・遼寧省)遼陽に生まれました。父親は、大規模な満州紡績に勤務し、優しく明るく母親は、ハイカラな反面しつけには厳しく、父親が帰宅すると家族全員が必ず玄関に迎えにで、手をついて「お帰りなさい」というしきたりでした。
彼女がピアノに魅せられた最初の機会は、遼陽小学校一年のとき、三年生の女子生徒が学芸会で披露した、モーツァルトの〈トルコ行進曲〉を聴いたときでした。ピアノを弾きたいという想いでいっぱいになった敏子少女は、母親に頼み、ピアノを習うことになりました。しかし、遼陽に専門のピアノ教師はいず、学校の音楽の先生から、週二度、放課後にレッスンを受けたのです。遼陽の冬は厳しく、零下三十度まで下がることもあったため、用務員室で熱いお湯を借り、かじかむ指をお湯に浸し暖めてから、レッスンをうけることも度々ありました。
小学六年生のときに、太平洋戦争が勃発します。旧満州という土地柄のため、彼女が戦争の悲惨を実感するのは後のことになりますが、遼陽には女学校がないため、都会の大連にある女学校に進学します。そこでも学業とピアノのレッスンにいそしんだことには変わりありませんが、なぎなた、木刀、銃の撃ち方も習うことになりました。大連は、アカシアのかぐわしい香り、ヨーロッパ的な街並の美しさで名高い街ですが、戦争はいやおうなく街とそこに住む人々を巻きこみ、未来の名ピアニストは、四年生のときに陸軍看護婦志願生になりました。親元を離れた宿舎での厳しいスケジュールでの作業は、少女たちにはつらいものでした。朝六時の点呼からはじまり、注射の仕方からメンソレータム作りまで、看護婦志願生の仕事は多々あったのでした。
実際に戦場に赴くことはなく、1945年8月に終戦を迎えます。同盟国だったドイツは既に5月に降服、8月には広島、長崎にアメリカ軍によって原爆が投下され、ソビエトの参戦もあり、日本が無条件降服したのでした。昭和天皇の玉音放送を聞き、敗戦の知らせに泣き崩れた女生徒たちは、教師の引率で宿舎のあった興城から大連に送り返されることになりました。帰路、敏子は両親の元に帰るべく、果敢にも皆と別れ、一人遼陽の駅で降り、占領下の町を歩いて家に戻ったのでした。この一件からも、彼女の勇敢さ、恐れのために行動をためらうことのない気質がみてとれます。
ロシア軍占領下の遼陽で、「日本人居住者とロシア軍兵士の慰問をかねて、音楽会をひらこう」という人があり、彼女も乞われてピアノを弾きました。和洋折衷の管弦楽団に加わり、〈越後獅子〉のさわりを弾いたのでした。占領下という治安の不安もあるなかでの音楽会でしたが、穐吉敏子の“初舞台”だったといっていいでしょう。
1946年になるとロシア軍が撤退し、中国共産軍が遼陽に入ってきました。穐吉家にも、二階には占領軍の軍人が住むようになっていました。満州紡績の重役が中国共産軍に射殺され、敏子のピアノもその頃取りあげられました。大事にしてきたピアノに別れを告げるとき、彼女は〈トルコ行進曲〉を弾きました。
満州から引きあげた人々の苦労は、大変なものでした。どれほど勤勉に働き財産を築きあげた人も、日本に引きあげるにあたって、もってかえることができるのは、最小限の荷物だけ。有形無形の財産も、宝石類も、一切許されませんでした。
穐吉家の人々は、葫蘆島(ころとう)での鉄条網がはりめぐらされたキャンプ生活をまず送り、船を待ち、そこから貨物船で帰国。途中、敏子は黄疸にかかり、広島市の宇治港から別府についたときは、すぐに入院しなければなりませんでした。
すぐ上の姉が肺浸潤を病み、そのため別府のサナトリウムに入ったときも、家のない一家は、ともにそのサナトリウムに住んだのです。六畳間と土間があったので、狭いながらも家族そろって生活することができました。その頃のことを穐吉敏子は、NHK人間講座(2004年6〜7月放送)で語っていまが、苦労話に終始するのではなく、「かぼちゃの雑炊をよく食べた、かぼちゃは好きだから苦にならなかった」と、いっています。どんな苦労のなかにあっても、明るい側面をみることができる彼女の特質は、生来のものであると同時に、この頃から培われたのでした。
戦後、アメリカ合衆国占領下におかれた日本には、全国いたるところに進駐軍と呼ばれたアメリカ軍のキャンプがあり、それは別府にもありました。
別府に落ち着いて間もなく、穐吉敏子が町を歩いていると、「ピアニスト求む」という張り紙が目にとまりました。ピアノが弾きたくてならない彼女は、そのダンス・ホールに入っていきました。それは日本人用のホールでしたが、採用され、それまで知らなかったコード(和音)もグループのバイオリン奏者から習いました。月給は月、一千円。家計の大きな足しになったことは、想像に難くありません。
「勝手に、自分なりの演奏をしていた」という敏子でしたが、耳のある人には、その才能がみてとれたのか、「ジャズ・ピアニストになる才能がある」と、熱心にジャズのレコードを紹介してくれる人がありました。そのときから数えて約六十年後に、わたくしは穐吉敏子にインタヴューしたのですが、彼女は恩義を感じた人の名を幾人もあげ、必ずフル・ネームで口にしました。その方は福井参郎。敏子にテディ・ウィルソンのピアノを紹介した人なのです。
その後、敏子が福岡のバンドに招かれ別府を離れるとき、福井氏が当時貴重だったジャズの教則本を贈ってくれたそうです。彼女は一週間後、返しにいきました。福井氏は彼女が気に入らなかったのかといぶかったそうですが、実際は、すべて写し終え、もらっては申しわけないと返しに行ったのでした。
福岡で、穐吉敏子は山田竜太郎のビッグバンドをスタートに、活動をはじめます。ダンス・ホールで、シンガーのバックがほとんどの演奏でしたが、ピアノ・ソロがあると、彼女は渾身の工夫をして弾きました。九州一といわれたビッグバンドでしたが、飽き足らなくなった彼女は、ある日思い切って東京にでたいと山田竜太郎に相談しました。リーダーは紹介状とお餞別までそえて、彼女を送り出してくれました。
上京した穐吉敏子は、ぐんぐん腕をあげました。リーダーが、次に会うべき人を紹介してくれるという経緯で、松本伸というテナー・サックス奏者が率いる《イチバン・オクテット》に参加します。このグループで、彼女ははじめてビ・バップという革新的なジャズにふれたのでした。そして「衝撃を受け、興奮しました」と語っています。
《イチバン・オクテット》は、米軍輸送部隊のアフリカン・アメリカンの兵士ばかりが集まるクラブに出演していました。穐吉敏子がはじめて演奏する曲は〈チュニジアの夜〉〈五十二番街のテーマ〉〈ジェット・プロポーション〉といった、ビ・バップのナンバーでした。革新的なビ・バップと、観客のかもしだす雰囲気があいまって、彼女は「はじめてジャズ・クラブに出演した」という感慨をもったのです。
ビ・バップは、それまでのスウィング・ジャズと異なり、テク二カルな曲が多く、即興演奏法も異なります。「休む間も惜しんで、勉強した」時期でした。AFRSという米軍ラジオ局のラジオ放送で、バド・パウエルのピアノを聴き、衝撃を受けたのも1948年のこの時期でした。
バド・パウエルのピアノ・トリオをAFRSの放送で聴いたときの印象を、穐吉敏子がNHK人間講座で語っています。「〈ボディ・アンド・ソウル〉というスタンダード曲で、その演奏はわたくしが今まで聴いたことのないビ・バップ・スタイルのすばらしいバラードでした。ラジオ局に問いあせたところ、そのピアニストの名がバド・パウエルだったのです。彼はアート・テイタム、テディ・ウィルソンなどのいわゆる伝統的なピアニスティックなピアニストではなく、むしろビ・バップの創始者といわれるチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーなどの管楽器で演奏されるスタイルを、そのままピアノに移した最初のピアニストではないかと思います。彼のタッチは華麗というのではなく、ごっつい、丸っこいタッチで、アップ・テンポの即興演奏は豪快そのもの。また、パンクチュエイションの感覚は特有のものがありました。バラードの演奏には男性のロマンともろさが感じられ、わたくしはすぐに彼の演奏のとりこになりました」
穐吉敏子のようなプロの演奏家でも、当時レコードは高嶺の花。ジャズ喫茶に通い、パウエルの新しいレコードが入ると何回も聴き込みました。後には生活を切り詰めてもレコードを求め、何回もかけては採譜し、そっくりに弾けるようになるまで練習したのでした。
1953年11月、ノーマン・グランツが率いる「ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック(通称JATP)」が来日し、日劇で公演を行いました。これは戦後、日本人ジャズ・ファンのためにはじめて開催されたジャズ・コンサートでした。
その来日主要メンバーだったピアニスト、オスカー・ピーターソンが、東京にはじめてできたジャズ・クラブ『テネシー・コーヒー・ショップ』で、穐吉敏子のピアノを聴き、才能を感じとり、ノーマン・グランツに紹介します。そしてグランツのレーベル「ノーグラン(後のヴァーヴ)」でレコーディングするよう、強く勧めました。
1953年11月、彼女の初リーダー作『アメイジング・トシコ・アキヨシ』が、ラジオ東京(現TBS)のスタジオでレコーディングされました。8曲収録されましたが、ギターにハーブ・エリス、ベースにレイ・ブラウン、ドラムスにJ.C.ハードという、ピーターソン・トリオのメンバーがバックをつとめました。この初リーダー作に豪華な面々が参加したのは、来日中という偶然も味方しましたが、ピーターソンの強い後押しがあったからでした。彼女にはテクニック的にも、堂々とビッグ・ネームとわたりあえる力量がありました。
レパートリーから自身で選曲し、六曲のスタンダードに加え、彼女のオリジナル〈ソリダード〉と〈トシコのブルース〉が収録され、その演奏は「当時の彼女がこれほどのスウィング感と創意を身につけていたのか」と、驚嘆せずにはいられないものです。特に前者は叙情があり、ラテンのリズムではじまりますが、中間部で彼女のソロになると、一気にビ・バップの香りを放つのです。そのときの興奮。それは、きっとオスカー・ピーターソンも味わったものだったのでしょう。そして重要なのは、穐吉敏子がそのとき既に作曲家でもあったことです。
アメリカのレーベルに初リーダー作を吹きこむだけでも、日本のジャズ界にとっては画期的な出来事でしたが、これが引き金となり、ボストンにあるバークリー音楽院(現在のバークリー音楽大学)から奨学金を受け、留学することになります。もちろん、日本人ジャズ・ミュージシャンの留学は、これがはじめてのことでした。
「ジャズはソシアル(社会性のある)・アートであると、わたくしは思うのです。共演する相手次第で、うまくなる。当時、これ以上日本にいては、小さな井戸のなかの大きなカエルのままだと思い、ぜひアメリカにいきたいと思ったのです」
終戦間もない日本ですから、留学までの経緯も大変でした。パスポートをとるだけでも、半年かかったのです。特筆すべきなのは、ナット・ヘントフやレナード・フェザーといった著名なジャズ評論家がリーダー作を聴き、ぜひとも留学するべきだと、尽力したことでした。
プロペラ四発動機ですから、各地で給油しながらの飛行。ボストンの空港には、バークリー音楽院長のローレンス・バーク、ボストンの有名なジャズ・クラブ『ストーリーヴィル』の経営者で、後にジャズ・プロモーターになるジョージ・ウィン、双方のプロモートを担当していたハリー・ポールの三氏が出迎えました。そして到着した当日の日曜の夜、『ストーリーヴィル』にはバド・バウエルが出演していました。
こういう出来事を、シンクロニシティ(共時性)というのでしょう。穐吉敏子が、パウエルのライヴを聴きにいったのは、いうまでありません。彼女は気遣いのある女性ですが、音楽に関しては常に率直に語ります。NHK人間講座で、その夜のパウエルの演奏は、昔レコードで聴いたようなすごみはなかったが、それでも内容の深さは依然としてあり、〈ダブル・エクスポージャー〉を聴いたときには、彼の頭のなかに入っているような気持ちになったと回想しています。その夜のドラマー、エド・シグペンは朝鮮戦争に召集され、日本にも来ていたことがあり、彼女とも共演経験がありました。ここからは、彼女自身に語ってもらいましょう(NHK人間講座「私のジャズ物語〜ロング・イエロー・ロード」より)。
「エド・シグペンの紹介でわたくしをにらみつけるように見つめたバド(・パウエル)は、わたくしに演奏をするようにと招いてくれました。しかし、何しろ日本からの三日間近く旅行で、ピアノに接していないプレイでしたから、かなりまずい演奏だったと思います。〈チュニジアの夜〉という、ディジー・ガレスピーの曲を演奏しましたが、後ろでバドが大声で笑っているのが聞こえました。今では及びもつかないことかもしれませんが、当時は日本人がジャズを演奏するということを知ることだけでも、ちょっとした驚きだったのです。ましてや女性となると、これはものすごい驚きだったようです」
バド・パウエルと穐吉敏子は、それ以降も、不思議とよく同じ街で演奏することがありました。1957年の夏休みの期間、彼女がニューヨークの有名な『ヒッコリー・ハウス』に出演していると、バド・パウエルが近くの『バードランド』に出演していました。敏子が聴きにいくだけではなく、パウエルも休憩時間によく彼女を聴きにきたのです。
パウエルが、穐吉敏子のピアノを好んでいたことは明白です。その理由は彼女の演奏のなかに自身がおよぼした影響を聴きとり、太平洋をわたった影響力を喜んだ面もあるでしょう。と同時に、彼のインフルエンスを超え、新たな創造に邁進する、一人の後進に励まされていたという側面もあるにちがいないのです。
1964年にフランス、パリで再会したときは、彼女は『ブルーノート』に出演、パウエルは肺病の治療のためサナトリウムに入院中でした。1959年からフランスに住んでいたパウエルは「外出許可」をもらい、パリでできた友人であるグラフィック・デザイナー、フランシス・ポードラの元で、週に一日すごす習慣だったのです。
そのとき、ポードラが穐吉敏子のリーダー作から〈スタジオJ〉をかけると、パウエルが言ったそうです。(NHK人間講座より引用)
「君は、女性ナンバー・ワンのピアニストだと思うよ」
崇拝するパウエルからのこの言葉が、苦境にあっても、生涯彼女を支えたのでした。
穐吉のオリジナルに〈リメンバリング・バド〉という曲がありますが、これは、バド・パウエルが亡くなったときに追悼の意をこめて作られたものです。2007年10月のソロ・ピアノ・コンサートでも披露されましたが、彼女とパウエルとの絆が音楽化された見事なコンポジションです。テンポの変化、一曲中で音楽の風景が変わる構成力がすばらしく、音が少なくなるとき、音楽がより雄弁にパウエルの死を悲しむのでした。
留学後三年目には、『マドモアゼル誌』の「ベスト10ウィメン・オブ・ザ・イヤー」に作曲家部門で選出され、すべて順調にみえた穐吉敏子でしたが、彼女自身が自伝『ジャズと生きる』に記しています。
「だが、そのころから私は何となく陰口をきかれるようになった。『彼女は日本人で女だから珍しがられているんだ』とか『来て間もないのに、前から努力して功績を積み重ねているベテランをのけていろいろ賞をもらうなんて、幸福な女性だよ』などの一言評で、面白いことに、それらの論評は私の仲間たちからではなく、新聞記者から聞こえてくるのだった。おそらく昔から知りあっている友達が無視されて、日本人のくせに生意気な、といった腹立ちがあったのではないかと思うが、着物を着る私を批評することもあった。私は背は低くて足は曲がっているし、馴れない着物でもそうほうがずっと格好よくみえると思って、週末には、窮屈な思いをしながら着物を着ていたのだが、それがかえって悪い結果をおよぼすのでは……、と思って着物を着ることは止めた。『出る杭は打たれる』というのはこのことかな、とも思った」
穐吉敏子がボストンに来て三年後、アルト・サックス奏者のチャーリー・マリアーノが、故郷であるボストンに戻り、バークリー音楽院の教授職につきました。そこで知りあった二人は、1959年秋に結婚し、双頭カルテットを結成します。「バークリー音楽院を卒業したら、日本に帰り、日本のミュージシャンに学んだことを伝えよう」。そう考えていた穐吉敏子でしたが、1959年、実際に卒業する段になると、何を身につけたのか今ひとつ納得できず、中途半端ではいけないとニューヨークに居を移し、アメリカ中のクラブに出演しはじめたのです。
バークリー在学中は、同音楽院の宣伝要員といった役割もあり、ノーマン・グランツのレーベルからレコード・デビューもしていた彼女は、新聞にもよく載り、スター扱いでした。音楽院の紹介でさまざまな著名ミュージシャンと共演し、そのなかにはデューク・エリントンという、ジャズ史に輝くビッグバンド・リーダーもいましたが、卒業後は自分で仕事を探さなければなりません。ルイ・アームストロングやビリー・ホリデイも所属していた、ジョー・グレイザーの事務所に所属し、全米のクラブをまわったのです。
マリアーノとの双頭カルテットで、キャンディド・レーベルにレコーディングをしますが、1960年、そのとき穐吉敏子が作曲したのが、彼女が「わたくしのシグネチャー・テューン」という〈ロング・イエロー・ロード〉です。黄色の肌をした日本人である彼女が、アメリカでジャズとともに歩んできた道を意味したもので、幼少の頃引きあげてきた中国でみた、どこまでも続く黄色い道からも曲想を得た曲でした。メロディが鮮烈な印象を放ち、聴き終わった後も口ずさみたくなるこの〈ロング・イエロー・ロード〉は、その後、彼女の代表曲になるのです。
1961年に、穐吉敏子は日本を離れてから五年ぶりの公演、それも六週間という長期ツアーを敢行しました。成功裡に終わったそのツアーで、日本のミュージシャンと聴衆に、多大な音楽的なおみやげを届けることになったのです。「ジャズと生きる」で、彼女が書いていますが、日本を出たときは四発動機プロペラ、帰国はジェット機。その進歩に比べ、自分はそれほど進歩しただろうかと自問したと言います。
1963年に、二度目の帰国ツアーが行われ、当時妊娠していた敏子は、母親のもとで出産したいと、演奏旅行後も日本にとどまります。1964年晩秋、生まれた娘さんを抱いてマリアーノとアメリカに戻るのですが、1965年に別居、その後離婚にいたります。幼い娘と二人になった彼女は、『ファイヴ・スポット』からソロ・ピアノでの出演を依頼され、やっと家賃がはらえると胸をなで下ろしました。しかし、朝三時半までの仕事ですから、睡眠時間は毎日二時間足らず。そんな生活が続き、とうとう寝込んでしまいます。経済的に人を雇うこともできず、穐吉は娘、マンデイ満ちるを別府の姉にあずけることにしました。苦渋の選択でした。
インタヴューをした折、彼女にジャズをやめたいと思ったことはあるかと訊ねると、二回あったと答えました。その一回目が、このときだそうです。そして二回目は、1969年にルー・タバキンと再婚し、カリフォルニア州に移り住んだときのことでした。
「ロス行きをきっかけに、ジャズをやめて、 (手元で再び育てていた)娘やタバキンの面倒をみようと、宣伝用の写真も捨てました」
ここでちょっと、当時のアメリカの社会情勢をみてみましょう。1950年代後半から、アメリカでは「公民権運動」が起こり、アフリカン・アメリカンの人々が差別のなかから立ち上がり、自らの人権回復を主張するようになりました。1960年代になると、マーチン・ルーサー・キング牧師、マルコムXといった指導者がアフリカ系の人々の間でカリスマとなり、運動は「ブラック・イズ・ビューティフル」を謳うジャズやソウル・ミュージックとも呼応して、大きなムーヴメントになっていきます。
それが若者達の権利、日系の人々を含むマイノリティの権利回復、独自の文化や言語を封じ込められていたハワイにも飛び火して起こった「ハワイアン・ルネッサンス」、そして女性の権利と、公民権運動に端を発した人権運動が広がっていくのです。
それは時代の要請であり、起こる必要のあった変化でしたが、当時アメリカ国内で仕事をしていた穐吉敏子には、またちがった影響を与えていました。
それまで黒人ミュージシャンを起用しなかったブロードウェイのミュージカル、テレビのショーのプロデューサーたちが、出演者の何割かをアフリカン・アメリカンに振り当てるよう、指定するようになったのです。教育面でも、小・中学校でジャズの演奏が、音楽教育の一環として取りあげられ、大学では、アフリカン・アメリカンの歴史と連動して、ジャズ史の講義をもつ大学が急増しました。ジャズは、アメリカが生んだ最大の文化でもあるのですから、大いに結構なのですが、「ジャズは黒人のもの」という思想が過度に強調され、日本人留学生としてはじめてアメリカで学んだ穐吉敏子には、疎外感を感じることが多々ありました。でも、その状況が、彼女に「ジャズとはわたくしにとって何なのか」「わたくしはジャズにどう貢献できるか」を突き詰めて考えさせる機会を与えたのでした。
2000年に、穐吉敏子が次のように語りました。
「この時代をアメリカで過ごした者として、自分の存在価値を考える必要に迫られました。前者の設問への答えは、簡単です。ジャズは、わたくしの存在そのものなのですから。後者の、わたくしがジャズに何をできるかは、そう簡単にはいきませんでした。アメリカ人なら、自国の文化です。当たり前のこととして向きあえばいい。ヨーロッパや南米の国々も、どこかでジャズのルーツがあるアフリカに、つながりがあるものです。そのつながりがない日本人である自分が、ジャズを演奏している姿が、滑稽というか、悲しい存在に思われたのです。でも思い返せば、そのある種、混沌とした時代に自問したことがきっかけで、わたしはジャズ・プレイヤーとして音楽に日本の文化を取り入れることはじめたのです」
「1972年に、夫であるルー・タバキンの仕事の都合で、ロスアンゼルスに移ってからは、タバキンと娘の送り迎えが生活の中心になりました。タバキンはテレビの仕事で金銭的には楽になりましたが、ジャズを演奏する機会がないことを残念に思っていました。そんな折、彼から「ロスアンゼルスの音楽家協会に、二時間半、五十セントで借りられる部屋があるから、タウンホール・コンサート (1967年に行った自主企画コンサート) のために書いたビッグバンド曲をプレイしよう」という、提案がありました。わたくしは、自分の考えをジャズで表現するには、カルテットのような小編成ではなく、より多くの色彩を使うことができるビッグバンドがふさわしいのではないかと、思うようになっていました。ニューヨークでは経済的に不可能でしたが、その値段なら借りて練習することができる。こうして1973年に、わたしたちのオーケストラをスタートさせることになりました」
このリハーサル・バンドのための作曲に専念することになった穐吉敏子は、新たなチャレンジに取り組みます。孤独な時代に世阿弥の「花伝書」や宮本武蔵の「五輪書」を愛読し、能を愛した父親の影響で、幼少の頃から鼓に魅了されていた穐吉は、1974年、このジャズ・オーケストラを念頭に、鼓の音をジャズに融合させることに成功した〈孤軍〉を書きあげるのです。時系列的にいえば、デューク・エリントンが亡くなる数ヶ月前に作曲はできていましたが、彼女が次のようにNHK人間講座で語っています。
「わたくしは最も大切なことを、デュークから学び取りました。ジャズ・ミュージシャンとして、わたくしが創るものはわたくしの歴史でなければいけない。同時に、わたくしの日本人としての歴史であるべきで、さらにユニヴァーサルなものでなければならないということです。少なくともわたくしは、これからも努力を続けたいと思っています」
1974年にビッグバンドとしてはじめてレコーディングした『孤軍』が発表され、日本で大きなヒット作になりました。1976年に同ビッグバンドで初来日公演。以前から穐吉の才能をかっていたMJQ(モダン・ジャズ・カルテット)のジョン・ルイスも賞賛し、彼の推薦で、《トシコ・アキヨシ=ルー・タバキン・ビッグバンド》は1975年のモンタレー・ジャズ・フェスティヴァル、1977年のニューポート・ジャズ・フェスティヴァルにも出演します。後者の『エイブリー・フィッシャー・ホール』での公演が、彼らのビッグバンドにとって、初のニューヨーク公演になりました。
穐吉は、それまでのビッグバンドにはなかった、木管セクションをジャズのなかに取り入れました。それが、彼女のビッグバンドのカラーを創るのに、重要な役割を果たしていきます。既成のジャズ・オーケストラには存在しない、コンチェルト形式の〈花魁譚〉(おいらんたん) などを作曲。日本の文化を取り入れた曲は、〈孤軍〉に終わらず、〈ミナマタ(水俣)〉で環境破壊を取りあげ、〈鴻臚館組曲〉ではシルク・ロード時代からの移民を取りあげました。1999年はデューク・エリントン生誕百年祭にあたり、モンタレー・ジャズ・フェスティヴァルからの依頼で、デュークに捧げる〈トリビュート・トゥ・デューク・エリントン〉を作曲、日本の太鼓をジャズに融合させた曲を完成させました。どれも、彼女にしか書けない作品でした。
穐吉敏子が、日本の芸術について興味深い見解を語っているので、引用しましょう(NHK人間講座より)。
「日本の芸術は『間』の芸術といって差し支えないのではないかと思います。画ですと、洋画のようにカンバス全体を塗りつぶさず、どう空間をとるか、能の場合は、昇華された無駄のない動き、音楽のリズムは横に流れるように思います。空間のリズムとでもいいましょうか。ヨーロッパのリズムは伝統的に縦に動きます。ジャズの場合はそれがスウィングという、はっきりと縦にリズムが動きます。わたくしはそれに、横に流れる日本の文化を取り入れました。リズムでいえば、鼓のように横の空間を感じさせる音、また拍子木や羯鼓(かつこ)のようにゆっくりとはじまって早まっていくもの、『越天楽』のように横に流れる雅楽の音、ストラーダ・ハーモニー(Strada harmony)という言葉がありますが、この場合、ストラーダ・リズムとでもいえましょうか。また、わたくしは謡曲も融合させていますが、謡も横に流れる芸術です」
このことばから、穐吉敏子の音楽にある「間」は、空間の美を熟知しているところから生まれのだと、理解することができます。
彼女の作曲家としての進化は、《穐吉敏子ジャズ・オーケストラ・フィーチャリング・ルー・タバキン》(穐吉のビッグバンドは、1983年にニューヨークに戻ってから、新たなメンバーをえて、上記の名を名乗りました)というすぐれた絵の具をもっていたこともあり、その後も彼女にしか描けない絵をかいていきます。〈フォー・シーズンズ〉〈ヒロシマ〜そして終焉に〉と、作曲家としての代表作といえる組曲を書いていくのです。
前者は、秋田県森田村からの依頼で書いた組曲で、日本の四季の美しさをジャズという言語で描いた名作でした。穐吉敏子の音楽生活五十周年、渡米四十周年を記念し、1996年に『フォー・シーズンズ』と題され、《穐吉敏子ジャズ・オーケストラ・フィーチャリング・ルー・タバキン》によってレコーディングされました。 ルー・タバキンの名演があっての四季の表現。ヴォヴァルディの〈四季〉が春からはじまるのに対し、穐吉の〈フォー・シーズンズ〉は、冬〈リポーズ〉からはじまります。雪が舞い上がる様子、木の葉が枝から落ちる音。そういった静寂のなかの微細な動きがイメージになり、それをみつめる心象風景が音楽化されます。間の効果が、静寂の何たるかを知らしめ、粒がそろった本真珠のようなピアノの音色が、冬にもあるやさしさを想わせるのです。春〈ポリネイション〉、夏〈ノリト〉、秋〈ハーヴェスト・シャッフル〉と、オーケストラの色彩を活かしきった演奏・作曲で、日本人ではなくてもその四季の描写には目を見張るはずです。
〈ヒロシマ〜そして終焉に〉は、43分にも及ぶ組曲です。穐吉敏子に「ヒロシマ」をテーマに作曲してほしいという依頼が、広島市にある善正寺の中川住職からありました。そのとき添えられていた資料のなかに、被爆後三日後の街を撮影した写真集がありました。それをみて、大変なショックをうけた穐吉は、無惨すぎて曲には書けない、断ろうと思ったといいます。ここからは、2000年のインタヴューから、彼女自身に語ってもらいましょう。
「その写真集に、ある若い女性の写真がありました。地下の防空壕から出てきたばかりなのでしょうが、地下にいたため被爆せず、半身を壕からだして、少し上をみて微笑しているのです。その顔のすがすがしさ。背景はこの世のものとは思えない悲惨さなのに、その若い女性の微笑みには希望があった。わたくしは、あ、これなら書けるかもしれないと、そのとき思ったのです。わたくしたちは、どんな状況にあっても、希望をもち続けなければなりません。現実世界での平和は、今しばらくはあり得ないかもしれませんが、平和という希望がなければ、生きていけないのではないでしょうか。今は、この曲の場合、仏さまが助けてくださっていいものが書けるといいなと願い、譜面にむかっています」
その世界初演が行われた2001年8月6日、広島厚生年金会館。わたくしがその初演をみることができたのは、NHKハイビジョンが、同時中継をしたからでした。音楽を聴いて涙するのは、久しぶりの体験でした。ヒロシマ、そして20世紀の戦争の記憶を音として焼きつけるため、穐吉は被爆者の声に耳を傾け、韓国まで足を延ばし、作曲を進めたそうです。そうして完成した大曲は、韓国宮廷音楽の笛奏者や広島の女子高生が朗読する詩も加えた、ジャズによる平和への祈りになっていました。その祈りに、聴き手の一人として加わったことを、感謝しました。
組曲〈ヒロシマ〜そして終焉から〉は、2003年、ニューヨークのカーネギー・ホールで行われた《穐吉敏子ジャズ・オーケストラ・フィーチャリング・ルー・タバキン》のアメリカ最終公演で、同国初演として演奏されました。最終章の〈ホープ〉は、穐吉がソロ・ピアノで弾くことも多く、その後もレコーディングされ、直近では詩人、谷川俊太郎の詩をえて、娘さんであるマンデイ満ちるのヴォーカルとのデュオで、穐吉史上はじめてのシングル『HOPE希望』として、2006年に発表されました。
わたくしは、この毋娘デュオを聴き、心を揺さぶられました。インタヴューで「娘だけにはすまないとこをしたと思います」と、目を伏せて語った穐吉敏子です。音楽を通じて許し、愛しあっているふたりの魂のハーモニーが、楽曲から聴こえるからです。このシンガーは、他の人ではだめだった、マンデイ満ちるである必要があったのです。
2007年10月10日、神奈川県橋本市の『杜のホール はしもと』で、穐吉敏子のソロ・ピアノ・コンサートを聴きました。ワン・ナイター (一都市一晩で移動する) の多いツアー。穐吉敏子は銀のジャケットに黒いドレス、スカート部分に、膝上のスリットがはいった出で立ちで登場しました。女性の年齢をうんぬんするのは野暮ですが、彼女は1929年生まれです。二十歳ほど若くみえ、ピアノを弾かせたらさらに若い。左手のパワー、自在に動く右手に驚嘆し、そこから紡ぎだされる懐かしさのあるメロディと、独自の「間」に魅了されました。
どうしてピアニスト、穐吉敏子はエネルギーをもちつづけられるのかをコンサート中も考えましたが、思い出したことがあります。お願いしたインタヴューが終了すると、すぐ、彼女は定宿にしているホテルから嬉々としてJRにのって、練習場へと向かったのです。どれほど才能があっても、努力なくしては前進しない。彼女の後ろ姿は、それを如実に物語っていました。
穐吉敏子の業績を、三つに集約するとしたら、ピアニストとしての凛々しさ、ビッグバンドではじめて木管楽器を使ったこと、作曲家として日本の文化をジャズと融合させたことになるでしょうか。
2003年に、三十年の実績をつんだ《穐吉敏子ジャズ・オーケストラ・フィーチャリング・ルー・タバキン》が日本で行った最終公演でみた、彼女のビッグバンド・リーダー/指揮者としての勇姿も忘れられません。リーダー穐吉がまっすぐに天を指し、手を振りおろすと、オーケストラから豊かな色彩が紡ぎだされる、その様。同オーケストラの音楽の独自な輝き。彼女の作曲を音楽化するジャズ・オーケストラとルー・タバキンのテナー・サックス演奏は、すぐれているばかりか豊潤さがありました。
そしてそのビッグバンド解散以降、彼女は「怠けていたピアニストに専念する」という聴衆への宣言を守り、ピアニストとしてさらなる前進を続けているのです。
かのジョン・ルイスは「トシコはビッグバンド・ミュージックに巨匠性(ヴィルチュオジティ)をもちこんだ」と言ったそうです。親交をむすんだチャールス・ミンガスは「トシコは天才だ」と言いました。アメリカの音楽大学では、彼女の作曲総譜が教材として使われています。
穐吉敏子は、日本の文化をジャズと融合させることで、彼女を生んだ日本に恩返しをし、ジャズにも多大な“貢献”をしたのです。そのことが、彼女の最大の音楽的業績だと、ここに明記したいと思います。

穐吉敏子&ルー・タバキン・ビッグ・バンド
『孤軍』
BMG JAPAN
BVCJ-37454
2005年10月26日発売
| ※ | 権利者の許可を得ずに、複製することを禁じます。 |

穐吉敏子&ルー・タバキン・ビッグ・バンド
『ロング・イエロー・ロード』
BMG JAPAN
BVCJ-37322
2003年5月7日発売
| ※ | 権利者の許可を得ずに、複製することを禁じます。 |

穐吉敏子ジャズ・オーケストラ
『ヒロシマ−そして終焉から』
ビデオアーツ・ミュージック
VACM-1189
2001年10月24日発売
| ※ | 権利者の許可を得ずに、複製することを禁じます。 |